箱根駅伝に命を賭けた男が名門中央大学で辿り経ついた境地 ー 岩本忠成

箱根駅伝に命を賭けた男が名門中央大学で辿り経ついた境地 ー 岩本忠成

2020.07.20
2023.12.13
インタビュー

「僕にとって箱根駅伝は競技生活の全てでした。19歳で夢破れて自分を見失いそうになった。でも今は『あの時の自分を絶対責めない』と決めています。苦しかったけど、あの時の自分は全力だったと思うので。」

そう語るのは中央大学3年生の岩本忠成だ。スポーツの世界では勝者もいれば敗者もいる。名門チームの輝かしい実績やそこに至るまでのストーリーが各種メディアで発信される一方で、人知れず消えていく敗者は多い。勝者の輝かしい姿は多くの感動を与えてくれるが、世の中には敗者の方が多い。箱根駅伝も然り。箱根路を駆ける選手もいれば、そこに届かなかった多くの選手たちがいる。今回は、普段スポットの当たらないところに切り込んでいく。語り出せば苦しい内容も多いであろうが、名乗りを上げてくれたことに感謝しながらインタビューをさせていただいた。

日本一の先輩と過ごした2年間

小学校の頃は野球をしていました。中学校でも野球をしようか迷っていましたが、当時好きだった女の子が陸上部に入るからという理由で、陸上部への入部を決めました。そんな軽い気持ちで入部しましたが、後に全国中学総体800mで2連覇する高橋ひなさんが1学年上にいました。そんなすごい先輩と一緒に練習していたのですが、当時の自分は意識が低かったんです。競技で何かを成し遂げたいとか、勝ちたいとか考えていませんでした。でも、今でも忘れもしないことがあって。ある日、高橋さんが200mの流しをしている時に、友達とふざけていた僕が高橋さんにぶつかりそうになって。その時に、普段は優しい顧問の先生にメチャクチャ怒られまして。「もしひなが怪我をして全国大会で負けたら責任を取れるのか!」って。先生も意識を高く、高橋さんと同じ熱量で指導にあたっていることに気づき、自分も先輩のような全国で勝ちを狙いにいく選手になりたいと思いました。

それから真剣に練習に取り組むようになり、3年生では1500mで4分15秒35という記録を出すことができ、県総体にも出場できました。入部当初からは到底考えられません。県大会では全国大会の標準記録突破を目指しましたが、大事なところで靴を踏まれて、かかとが脱げ、目標達成ならず。人生そう上手くいくもんじゃないと思いましたね。駅伝にも思い入れは強く、区間について顧問の先生に自ら懇願したこともありました。前日の区間発表でエース区間の1区を任せていただいたにも関わらず、1区では区間賞争いはできないから「6区を走らせて欲しい」と志願し、区間3位に入ったことがありました。顧問の先生は「有言実行してくれて嬉しかった。」とおっしゃってくれましたが、今考えれば恥ずかしいエピソードだと思います。大人に対して初めて強く自己主張したあの時のことは今でも覚えています。

超進学校からインターハイを目指すという選択

高校は県内屈指の進学校である姫路西高校を選びました。本当は陸上だけに専念できる学校に行きたかったのですが、周りの助言や将来のことも考慮して進路を決めました。ところが、入学してみると思いの外、陸上部が強かった。1つ上の学年には全中出場者の先輩が4人もいて、中には全中で準優勝し、最後のインターハイでも4位に入賞した木下将一さんもいらっしゃいました。ここでも陸上に本気で打ち込める環境が整っている、と気合が入りました。
高校では中距離種目である1500mをメインに絞って練習していました。これは進学校にありがちなのですが、日々出される課題などが多く、練習時間を確保することができません。その中でどうやって上を目指すか考えるうちに練習は必然的に量より質を重視するようになり、持久力よりもスピード重視になりました。なので、練習量がものを言う5000m以上の距離よりも、1500mの方が上を狙いやすかったんです。スピードに磨きをかけ、3年生の時に兵庫県大会で学校記録となる3分55秒95で5位入賞を果たし、近畿インターハイに出場して決勝まで進出しました。

箱根駅伝への思い

中学、高校ともに駅伝にはトラック種目とはまた違った思い入れがありました。中学3年生の時に受験勉強をしながら、第91回箱根駅伝をテレビで見ていたのですが、トップを走る青山学院大学の選手が20km以上走った後にも関わらず、カメラに向かってピースをしていました。後のインタビューでは、「本当に楽しい21.4kmでした。」とおっしゃっており、その姿に憧れ、「自分も箱根駅伝に出たい!」と強く思うようになりました。なので、高校も1500mよりも長い距離をやりたいという気持ちもありましたが、箱根で必要なスピードを養うためと割り切って1500mをやっていました。
長距離にとって駅伝は唯一の団体種目で、別の部員にとっても駅伝にかける思いは強かったと思います。自分の母校のような進学校では秋の駅伝大会を待たずに引退してしまう選手も多かったのですが、自分が2年の時には1つ上の先輩が駅伝まで残ってくださり、タスキを繋いだことは今でも鮮明に覚えています。3年生の時には同期2人とともに駅伝に残り、学校記録と過去最高順位を更新することができました。チームで結果を残せたことは個人種目よりも、何倍も嬉しかった記憶があります。

名門中央大学、藤原正和監督との出会い

大学選びに関しては関西の大学からはお誘いをいただいていたのですが、やはり箱根駅伝を目指していたので関東の大学を考えていました。そんな中、自分が高2の時に中央大学は箱根駅伝の88回連続出場の記録が途絶えてしまいました。ですが、その年は藤原正和監督が就任されたばかりで、これから強くなっていくであろうチームの中に身を投じ、チームとともに自分も成長していきたいと考えていました。そんな中、自身が5kmの部で優勝した姫路城マラソンのゲストが中央大学の藤原正和監督だったので、思い切って自ら声をかけました。そして連絡先を交換させていただき、「5000mで14分40秒を切ることを目標にしてください。」と言われ、近畿インターハイ以降は長距離にシフトして、受験勉強もそっちのけで走っていました。ですが、結局故障にも苦しみ、14分40秒には届きませんでした。
高校では陸上しかしていなかったので、そこで初めて大学の選択肢がなくなってしまったことに気づき、それから約3ヶ月間、必死に勉強して一般入試で中央大学に入学することができました。嫌な勉強も箱根駅伝のためだと思えば、なんとか頑張れました。そして、お世話になった地元の方々には「箱根駅伝に絶対出るので見ててください!」と豪語し、上京しました。

勝負の世界の厳しさ、そして事実上の戦力外通告

中央大学に入学して意気揚々としていました。「これでやっと陸上に100%注ぎ込める!受験のブランクを取り戻し、一気に力をつけてやろう!」という思いでした。しかし、現実は厳しいものでした。1500mでは3分台の記録を持っていましたが、練習には全くついていけなかった。試合で見える記録の差以上に、練習での差が大きかった。進学校で「量より質」という練習をしていたため、量が求められる練習への耐性がなかったのです。これが強豪高校出身の選手たちは圧倒的に強かった。同期は15名いたのですが、スポーツ推薦が10名。実績のある選手ばかりでした。ようやく望んでいた陸上に没頭できる環境を手に入れたのに、練習には全くついていけない。チームメイトとの差に焦る気持ちとは裏腹に長い距離に耐性のない自分は、練習をすればすぐに怪我をしてしまいました。入部してから8ヶ月でアキレス腱炎、シンスプリントの悪化による両スネの疲労骨折に悩まされました。
「走っては怪我」という状況を繰り返し、気づけば年の瀬の12月。「せめて今年中に5000mで15分00秒を切ることが最低条件。」と言われました。受験勉強を乗り越え、ようやく辿り着いた箱根駅伝を本気で目指すことができる環境、ここまで来て諦めたくはない、と最後までもがきました。ですが、身体はもう限界でした。結果はまさかの16分台。高校での初めてのレースとさほど変わらないタイムでした。コーチからは「大学に入ってから一度でもこんな記録を出した選手が箱根を走った前例はない。」と言われ、これが事実上の戦力外通告だと感じました。同期は「一緒に頑張ろう!」と言ってくれましたが、ここが限界だなと思って自主的に退部しました。

退部、挫折、そして

16分かかったレースの日が偶然2018年のM−1グランプリ決勝の当日でした。霜降り明星が優勝した年です。家に帰ってM−1をテレビで見ながら、ごく普通に笑っている自分がいました。高校生の時の自分は、レースで上手くいかなかった日には部屋にこもって塞ぎ込んでいました。なので、レースで上手くいかなかったにも関わらず、M−1を見て笑っている自分に気付いた時に、アスリートとして終わったなと感じました。それから半年間は何も手につきませんでした

競技からの引退は自ら決めたことでしたが、今まで10年間近く陸上競技が生活の中心だった自分は空いた時間をどう過ごしていいか分からず、自暴自棄にもなりかけました。そんな時、60歳を超えてもなお誰よりも笑いに貪欲な明石家さんまさんの姿に感銘を受け、自分も多くの人を笑顔にしたいと考え、大学の落語研究会に入りました。これまで陸上競技一筋だった自分にとって全てが新鮮で、毎日が発見の連続でした。初めての経験ばかりでしたが、自分で組み立てた構成と喋りでお客様に笑いを提供することができた時はとても嬉しかったです。他にも、サークルとしてよさこい祭りに参加したり、居酒屋でアルバイトをしたり、ごく普通の大学生としての日々を送っています。見える世界が広がったことで、多くの人やものに出会い、本当に充実した毎日を過ごさせていただいています。

恩師の言葉

高校生の時の顧問に言われて、鮮明に覚えている言葉があります。「部活動をすることの価値は、自分の行動でプラスにしろマイナスにしろ、何らかの影響を他人に与えられることを理解すること。」ということです。この言葉を聞いた当初は特に心に響きませんでした。当時の自分は、個人種目である陸上競技の結果は自身の努力の現れだ、と独りよがりな考えを持っていました。しかし、高校最後の県インターハイで1500mで近畿インターハイ出場を決めることができたことに対して、チームメイトが泣きながら祝福してくれました。その時に、初めてこの言葉の意味を深く理解しました。自身の結果は一人で成し遂げたものではないんだ、感謝の気持ちを持たなければ、と思いました。
自分は陸上で挫折した経験がありますが、そんな経験を持つ自分だからこそ、誰かにプラスの影響を与えられるのではないかこと考えるようになり、リクゲキさんに声をかけさせていただきました。もちろん純粋に大好きな陸上競技に携わりたいという気持ちもあります。選手という形ではなくなってしまいましたが、自身のこれまでの人生を語る上で最も重要な陸上競技に何かしらの形で貢献したいと思っています。

応援してくれた人たちに伝えたい思い、そして自身への思い

地元の人たちには「箱根駅伝に絶対出るので見ててください!」と豪語して、上京しました。それからずっと応援してくれた人がいたにも関わらず、退部したことや、陸上を辞めたことをしっかり面と向かって伝えることはできていません。申し訳なさと感謝の気持ちがありますが、いつかしっかり伝えたいと思っています。形は違えど、何かしらで活躍している姿を見せることでお世話になった方々への恩返しができれば嬉しいです。あと、これは自分自身へのメッセージですが、、、。大学のコーチに「お前がやっている努力は箱根に出る選手のレベルなのか?」と言われました。それを言われて自分自身を何度も責めました。でも、これだけは言えます。「あの時の自分にできることはやりきった」と。結果だけを見れば責めたくもなりますが、やるべきことをやったという自信は持つようにしています。そして、箱根駅伝の夢へ挑戦したことは全く後悔していません。あの時の決断が人生の中でどういう意味を成すのかは自分のこれからの頑張り次第で変わってくると、常に自分に言い聞かせています。

編集後記

全国大会に出場できる人数は全体の2%程度と言われています。そして、全国で活躍したと言える人数はさらに少なく、全体の0.01%程度になります。そうすると世の中のほとんどはその名を知られることもなく引退していきます。しかし、その一人ひとりにはヒューマンドラマがあります。リクゲキは、「無名の選手にもスポットを当てていこう、そこにも大きな価値がある。」と考えて活動をしています。岩本さんの取材を通して、その気持ちがさらに強くなりました。栄光だけが価値ではない。悔しさを知ったからこそ、得られたものがある。そんなことを思いながらこれからも取材をしていきます。岩本さん、ありがとうございました。

INTERVIEWEE

岩本 忠成

岩本 忠成

中央大学
兵庫県出身。姫路市立山陽中学校、兵庫県立姫路西高等学校出身。小学校時代は少年野球チームに所属していたが、中学校入学と共に陸上競技部に入部。当初は目立つ選手ではなかったが、高校3年時には1500mで3分55秒95をマーク。箱根駅伝への熱い思いを胸に主戦場を中距離から長距離へ移すことを決意。箱根駅伝の常連である名門・中央大学に進学。紆余曲折あり陸上部を退部するも新たな目標に向かって歩んでいる。

WRITER

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リクゲキ編集部

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