天才スプリンターが9年かけてたどり着いた答え ー山本慎吾

天才スプリンターが9年かけてたどり着いた答え ー山本慎吾

2020.07.06
2023.12.13
インタビュー

「同級生の太田雄貴がオリンピックで銀メダルを取って、見違えるような姿になっていたのを目の当たりにして、この4年間、俺は何をしてたんや、、、って後悔だらけでした。」

数々の栄光を手にしてきた天才スプリンター山本慎吾。高校1年生の国体100mで10秒59を記録し優勝。200mで記録した高校1年生の日本記録21秒11は、その後破ったのはサニブラウン選手のみ。それもわずか0.02秒差。少なくとも高校生段階ではサニブラウン選手と同レベルにあった彼が、その後、怪我で一線を退き自己ベストを更新することもなく引退。それから10年以上が経った。その後の山本はどんな人生を歩んだのだろうか。

後悔多き大学4年間だった
後悔多き大学4年間だった(写真左)

出版社に就職して

山本は大学卒業後、出版社に就職した。その出版社は「夢」をテーマにした本を何冊も出版していた。陸上という世界で夢破れた山本は、夢の大切さは身に染みてわかっていた。大学4年生の時に出演したテレビ番組では、夢を見失った青年と語り合った。「夢をもっても叶わないから、儚いんですよね。」と語る青年に山本は言った。「夢に向かって一生懸命になるってカッコ良いと思うで。」と。しかし、山本自身は夢こそ忘れてはいなかったが、失意の中、陸上を引退していた。その悔しさを払拭すべく、山本は新しく飛び込んだ出版業界で一生懸命に働いていた。取材が多く入れば日を跨いで夜遅くまで働くこともあったという。ただただ仕事に邁進する毎日で、陸上競技への未練も断ち切ったかのように見えた。しかし、慌ただしい日々を過ごす中で、ある人物との再会が山本の心を動かすこととなる。

太田雄貴との再会

就職して4ヶ月ほどが経った頃、北京オリンピックが行われた。大学の先輩にあたる朝原宣治、高校までライバルだった塚原直貴らが男子リレーで銅メダルを獲得した(後に銀メダルに繰り上げ)。塚原に対しては前年の大阪世界陸上の時には嫉妬したが、もうどこか他人事のようにも思えた。いろんな気持ちが入り混じりながら北京オリンピックは通り過ぎて行った。
その後、山本はフェンシング銀メダリスト太田雄貴の取材の機会を得た。取材現場での太田を見ていると、周りのスタッフの様子が気になった。「太田さん!こちらへどうぞ、お会いできて嬉しいです!」と羨望の眼差しで見るスタッフたち。オリンピック銀メダル獲得、日本フェンシング界初の快挙は、太田を誰もが憧れる存在へと押し上げていた。その様子を見て山本は悔しさと同時に、新たな感情に出会うことになった。

「太田雄貴の言葉は、普通のことを喋っていても、自分の発する言葉とは一つ一つの重みが全く違って聞こえました。大学の同級生だった彼が遠い存在のように思えたし、自分自身の大学4年間を後悔しました。葛藤だらけでしたが、気づけば『仕事を辞めてもう一回陸上を納得いくまでやりたい!』と、本音が頭の中を駆け巡っていました。」

太田の存在がもう一度スパイクを履く決意を固めさせた
太田雄貴氏の存在がもう一度スパイクを履く決意を固めさせた

仕事を辞める決断

山本はその頃、気づけば仕事終わりの夜に堤防に走りに行くようになっていた。試合に出る予定もないのに、夜な夜な堤防に走りに行ってはしみじみするようになっていた。走って、疲れて、夜空を見上げて、「やっぱ俺、走りたいんや。」と気づかされた。半年ほど勤めた会社を辞めることを両親に相談した。母は応援をしてくれたが、父には止められ喧嘩になった。しかし、山本に迷いはなかった。1日も無駄にしたくない。その思いで山本は退職をした。

赤堀弘晃との出会い

2008年秋、山本は1年ぶりに陸上界に戻ることになった。新しい陸上生活が始まった。WIND UPの赤堀弘晃氏に指導してもらうことになった。当時のことを振り返って山本は言う。

「全て1からやり直しました。自分には基礎の部分がなくなっていました。小手先の技術じゃなくて土台を固めるように、歩き方、ジョグ、ドリルなどから全部やりました。ロングジョグだけで2.3時間やっていたこともありました。それから、800m、600m、400mと長めの距離をフォームを意識して、ビデオで撮影して、チェックして、、、と。基礎の基礎をやりながら、徐々に速い動きを入れていきました。」

高校2年生の怪我以来、遠ざかっていた基礎的な練習を徹底的にやった。それは失った時間を取り戻す日々だった。ようやく復帰したが、すぐに成果が出たわけではなかった。「遅い動きの中でフォームを作っていたから、復帰したての頃は全くスピードが出なかった。」と語る山本。しかし、赤堀氏からの指導を信じて直向きに努力を重ねた。

9年ぶりの自己ベスト

2011年5月4日。山本にとって忘れられないレースとなった。
2011年5月4日。山本にとって忘れられないレースとなった。(右から4人目)※写真クリックで動画視聴

基礎的な練習を繰り返し、少しずつタイムが上がって行った。1年後には4.3mの追い風参考ながら10秒61を記録。復帰2年後の2010年には公認で10秒68を記録。10秒6台は10秒52の自己ベストを出した高校2年生以来、8年ぶりのことだった。冬季練習を乗り越え、2011年5月4日。山本は奈良県選手権に出場した。予選は10秒53を記録し1着通過。準決勝も10秒61で1着。そして、運命の決勝。

決勝では1着の選手がゴールタイマーを10秒47で止めた。山本はわずかの差で2位。追い風1.5mで10秒50。9年ぶりの自己ベストだった。山本は当時のことを振り返って言う。

「ここからがスタートだという気持ちでかなり次を見据えてた感じでしたね。2012年の日本選手権がロンドンオリンピックの選考会で、しかも地元大阪での開催だったから、その決勝で走りたい!と思っていました。具体的なタイムは決めず、とにかく今より速く走りたい、という思いでした。ただ、家族やチームメイトがめちゃくちゃ喜んでくれて、それが嬉しかったですね。自分より周りの方が喜んでくれていました。」

当時の新聞には山本の写真が載っていた。9年間の苦悩から解き放たれた山本の表情には笑顔が溢れていた。

山本慎吾の今、そしてこれから

9年ぶりに出した10秒50の自己ベストから、すでにもう10年近く経つ。山本は今年で35歳になるが、今でも走り続けている。

「今は、とてもピュアな気持ちですよ。小学生の時のように楽しいから走っている。年齢を重ねると身体へのアプローチの仕方が毎年変わる。毎年が試行錯誤だし、常にチャレンジ。未知数で面白いですよ。2年前は10秒9だったのが、昨年は10秒8に戻った。だからこの後も10秒7、10秒6と伸ばしていきたい。マスターズの大会にもチャレンジしたい。これからもずっと、走り続けますよ!」

指導にも力を入れている山本。生徒を見守る目は温かい。
指導にも力を入れている山本。生徒を見守る目は温かい。

もう、ここには苦しんだ山本はいなかった。高校2年生、若干16歳で味わった大きな挫折。あれからもう20年近くが経つ。一度は嫌になりかけた陸上を今、楽しんでいる。そんな山本に100mの魅力を聞いてみた。「他のスポーツ以上に、0.01秒に大きなドラマが詰まっている。それを10年も20年もかけて追い求め続けるって凄いことですよね。そのチャレンジに意味があるし、99%はしんどいことだけど、1%の喜びのために頑張れる。そこじゃないですかね。中途半端では手に入らないし、得るものもない。全力で取り組んだ先に大きな喜びがありますね。その喜びのためにも、これからも頑張りますよ。」怪我に苦しみ、そして乗り越えた彼だからこそ、その走りは多くの人に勇気をもたらすだろう。山本のこれからが楽しみだ。(完)

INTERVIEWEE

山本 慎吾

山本 慎吾

NOBY T&F CLUB
1985年12月28日大阪府生まれ。島本第一中学校、太成学院大学高等学校、同志社大学出身。島本ジュニア陸上教室在籍時に当時の小学生100m日本記録11秒73を樹立。その後、中学1年生の日本記録11秒16をマーク。全国中学総体、ジュニアオリンピック等で活躍の後、太成学院大学高等学校の1年生時には100m10秒55、200m21秒11を記録した。特に200mはサニブラウンハキーム選手が21秒09を記録するまで高校1年生における日本記録を保持していた(現在も歴代2位)。中学生の頃から陸上競技メディアで「天才スプリンター」と掲載されるなど、当時としては異次元の走りで観客を湧かせていた。大学卒業後、一時引退するも復帰。全日本実業団で決勝に残るなど活躍中である。また2023年4月からは短距離走に特化した陸上競技クラブ「YUKI SPRINT CLUB」をスタート。以下のSNS等でも積極的に発信中。

YouTube
https://m.youtube.com/@gnarlywaves0817
YUKI SPRINT CLUB Instagram
https://www.instagram.com/yukisprintclub/
山本慎吾 Instagram
https://www.instagram.com/shingo_1oo/
山本慎吾 Twitter
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