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目指すは8m40超え!急成長のジャンパーが語る記録向上の秘訣とは!? - 吉田弘道

吉田弘道
立命館大学

兵庫県出身。福崎町立福崎西中学校、兵庫県立姫路商業高校卒。現在、立命館大学経済学部3回生。小学校時代に友達に誘われて陸上競技を始める。中学3年時には全国中学総体出場。高校時代にはインターハイ、国体、日本ユースに出場。高校3年生のシーズンが始まるや否や、追い風参考記録ながら7m70を記録し、一躍時の人となる。立命館大学進学後に自己ベストとなる7m88を記録。大学4回生を競技人生の区切りと考えており、「日本記録8m40更新」「東京五輪出場」を目標に掲げている。

「今年中に8m22は跳んでおきたい。来年は8m40を超えて日本記録更新、ユニバーシアード入賞、東京五輪出場が目標ですね。」

終始、柔らかい表情でインタビューに受け答えをしていた彼が一際力を入れて語ったのが冒頭の言葉だ。柔らかな人柄からは想像できない強気な言葉が飛び出した。吉田弘道、計り知れぬ可能性を秘めたロングジャンパーだ。

陸上競技との出会いから全国中学総体までの道のり

小学校3年生の頃に友達に誘われて陸上競技を始めました。100mや走高跳をしていましたね。本当は走幅跳に出たかったですが、人気があった走幅跳には人数制限で出られなかったんです。6年生最後の試合でようやく出場できて、小さな大会で3位に入りました。でも、1位の記録でずば抜けていて、とても悔しかったですね。

中学入学時はバスケ部に入ろうと思っていましたが、陸上部顧問に勧誘されて。押しに負けて陸上部に入りましたね。入部当初は100mや走幅跳をやりたいのに、顧問に「長距離やれ。」と言われたのを覚えています。長距離は苦手だったので上手いこと逃げ、走幅跳に取り組みました。3年時に県大会優勝、全国大会にも出場できました。6m81を記録した県大会では、抜きつ抜かれつの戦いになって、最終跳躍で大ベストを出して優勝。あれは本当に気持ち良かったですね。

本気で学校を辞めようと思った高校1年生の冬

兵庫県立姫路商業高校に進学後は県総体で3位に入り、1年生としては頑張った方だと思います。ですが、高校生活は地獄でした。高校生活に適応できずにいろんな面で追い込まれてしまいました。朝早くに家を出て、夜遅く帰る生活でしたし、商業科の授業に苦労しました。そして何より陸上部の練習はとにかくきつい。学校も休みがちになり、高1の冬ごろには、本気で転校しようと思い、親にも相談しました。でも、顧問がとても厳しく、怖くて言えずにいました。練習を1週間休んだ時には、そのまま何も言わずにしれっと転校する気満々でしたが、あるとき顧問に対してこう思ったんです。「こいつに負けたあかんな。」と。それからは死ぬ気で練習しましたね。

7m70を跳び高校トップクラスの選手へ

猛練習をして2年時には7m25と一気に記録が伸びました。県ユースで優勝、日本ユースでも9位に入りました。とにかく走りまくって、スピードがめちゃくちゃ上がりました。マイルメンバーにも入りましたし、スタート練習では短距離選手にも負けなくなりました。高2の冬季練習はさらに追い込んだ練習をしました。1学年上の香嶋先輩が、三段跳びもマイルも走れるすごい人だったんです。その先輩と冬季練習を積めたのは大きかったです。いつも食らいついて走って、体力、走力がそれまでと比べ物にならないくらいが上がりました。

高校3年生のシーズンは、インターハイ優勝という一番欲しかったものは得られませんでしたが、多くのものを得た1年だったと思います。追い風参考ながら7m70を跳び、陸上雑誌で取り上げられました。マイルリレーでも県大会、近畿大会では予選・準決勝・決勝と全て走りました。本命の走幅跳はインターハイ準優勝でした。最終跳躍でファールながら7m80を超えていたと思います。あれがファールじゃなければ優勝できたかもと思ったりもしましたが、逆にあれが記録として残っていたら、その後、それを超えられずにめちゃくちゃ苦しんだと思いますね。あれはあれで意味があったのかなと思います。

国体での闘い 吉田弘道vs多田修平

高3の秋には国体で県代表になったのも大きな経験になりました。何かの代表になるということがこんなにプレッシャーになるのかということを体感できたのは良かったです。リレーでは、予選で飯塚翔太さんと、準決勝では、桐生祥秀さんや多田修平さんと同じ組でした。特に多田さんとは隣で走って嬉しかったですが、同じ人間なのにここまで大差をつけられるのか、、、と肌で感じました。日の丸を背負う選手と同じ舞台に立てたのは本当に貴重な経験になりました。

大学選びで抱いた反骨心を力に変えて

大学選びをする中で、いろんな大学から声をかけていただきました。当時、関西地区では関西学院大学がとても強くて、周りからも「関学に進むのが良いのでは?」と言われました。ひねくれ者かもしれませんが、「勝てるところに行っても面白くない。関学に負けているところに進学して、関学を倒したらカッコいいやろな。」と思ったんですね。それで立命館大学を選びました。

大学に進学してからの2年数ヶ月は一瞬で過ぎていきました。1回生のころは怪我で4,5回しか試合に出ていません。競技人生で初めてベストを更新できない年でした。それもあって大学1回生の冬季は全く妥協せずに練習しましたよ。みんなとの練習をして、その後に自主練習で300m+200m+100mのセット走を入れたり、200mを何本も走ったりしてました。高校時代にめちゃくちゃ走り込んでいたおかげで、そういう練習にも耐えられました。それが2回生での復活に繋がったと思います。

今の自己ベスト7m88を跳べた秘訣

試合で勝つと「感謝の気持ちを誰に伝えたいですか?」とインタビューされることがあります。テンプレートのように「家族や仲間、先生に感謝を伝えたい。」と答える人が多いと思うんですが、「それだけちゃうやろ!」って自分は思っているんです。

感謝すべきは家族、仲間、先生だけじゃなくて、スパイクやユニフォーム、練習着、練習道具などを作ってくれた人、それらが自分のもと届くまでに携わった全ての人。試合会場に行くには電車が必要で、その運転手。試合の運営をしている人、日々食べている食料を作ってくれている人、、、何千人、何万人という人のおかげで自分が競技をできている。それに大学生になってから気づいたんです。だから、試合の行き帰りとかは感謝の気持ちが溢れているんです。その感謝の気持ちを持つようになってから一気に記録が伸びました。

周りからは「なんで記録伸びたん?お前何したん?」って聞かれるんですけど、自分がしたことなんて全体の1割くらいのもので、ほとんど影で支えてくれた人のおかげで記録が出てたと思っているんです。大学生になってからはそういう視点や思考を持つことができるようになって、記録以上の成長ができたかなと思っています。

2021年をラストシーズンと考えて

高校3年生のインターハイが終わってからずっと「東京オリンピックに出る!」と本気で言っていました。2021年に延期になりましたが、大学4回生になる2021年を競技人生最後の1年にすると決めていたので、そこで目標達成して競技人生を締めくくりたいですね。2021年の日本選手権では城山さん、橋岡さん、津波さんの3強に割って入りますよ。その3人が勝つよりも、無名の僕が勝ったら一番目立つじゃないですか。8m40を超えてオリンピック日本代表を勝ち取ります。あと、ユニバーシアードでは入賞も狙って行きます。そして気持ち良く引退ですね。

編集後記
吉田選手には好青年という言葉がピッタリだ。穏やかで柔らかい表情が印象的である一方で、強い反骨心のようなものと、それによって生まれるストーリーを楽しんでいるようにも思えた。強い人が筋書き通りの勝利を収めるよりも、弱い者、無名な者が勝った方が目立てるし面白い。理屈はわかるが、その勝負に挑むのは並大抵のことではない。敢えて茨の道を行くのは根底に自分を信じる力があるからであろう。1年後、彼が日本選手権の表情で笑顔を浮かべていることを楽しみにしている。

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