「子供の頃から、ずっと日の丸をつけて世界と戦いたいと思っていました。その夢を叶えるために今も頑張っています」
そう語るのは現在ラグビー選手として活動中の飯田将之だ。彼は野球、陸上、ラグビーと種目転向をしてきた異色のアスリートである。陸上競技の世界でも、種目を変えながら世界を目指してきた選手は少なくない。100m9秒台のスプリンター桐生祥秀選手は小学校時代にサッカーを、小池祐貴選手は中学まで野球をやっていた。しかし、飯田のように野球、陸上、ラグビーと3つのスポーツを渡り歩いてきた選手は稀だ。しかも、ラグビーに至っては社会人になってから始めたという。その異色のアスリート、飯田将之の競技生活に迫る。
野球少年が飛び込んだ陸上競技の世界
小中学生の頃は野球をメインでやっていました。同時に4年生くらいから陸上の大会に駆り出されて中学1年生の夏までは100mをやっていました。県大会にはいきましたが、それ以上では通用しなかったため、顧問にハードルを勧められました。走るたびにベストを更新し、気づいたらジュニア五輪の中学1年生の部で準優勝していました。3年時には全国中学総体で準優勝。その時に記録した100mH14秒29は当時の東海中学新記録でした。陸上の強豪校からお誘いもいただいていましたが、硬式野球の強豪校から特待生でのスカウトを受けていたのでそちらを考えていました。小さい頃からプロ野球選手になりたかったので。野球雑誌にも注目選手として取り上げられていました。
でも、当時所属していた野球チームで自分のその後の人生を変える出来事が起こりまして。というのも、自分の野球チームが当時あまり強くなくて。自分はチームの主力として頑張っていましたが、仲間のミスなどで負けることが続いて、足を引っ張られることに対してどうしようもない怒りを覚えていたんです。その頃、ちょうどお誘いをいただいた野球の強豪高校への練習会に参加したんです。その時に、自分のチームと雰囲気が被ったんです。「ここでは自分は野球選手として成長できないな。」と直感的に感じてしまったんです。「強豪でもこのレベルなんだ、、、。」と拍子抜けして。その時、野球を辞めて、自分の力で勝負できる陸上競技の道を行こうと決めました。
自らに勝つこと義務づけた高校時代
父親の影響で野球を始め、父にはプロ野球選手になるのを期待されていました。野球名門校からスカウトも受け、それを蹴ってまで陸上競技の道を選んだ。だから、自分の中では「全国インターハイで優勝するのは絶対条件」でした。野球で厳しいトレーニングをしていたので自信はありました。同級生には全中3位だった岩見がいてそれが自分にとってはすごく良かった。常に切磋琢磨していました。また、小栗先生に骨格からアプローチする動き作りを教わり、それがすごく効果がありましたね。1年生の時は、インターハイ路線は東海大会止まりでしたが、新人戦やジュニア五輪に向けてはかなり調子は良かったです。ですが、両大会ともリード脚を引っ掛けて止まってしまった。あれは悔しかったですね。
2年生では、疲労骨折で2ヶ月練習を休んですぐにインターハイ支部大会に臨みました。ハードル練習をほとんどしていませんでしたが、筋トレ、イメトレ、小栗先生の動きづくりを中心に練習をしていたことで、いきなり14秒台が出ました。東海インターハイでは8種競技にも出て大会新記録で優勝できました。全国インターハイでは3位でしたが、同じ高校から3名110mHに出場しており心強かったです。先輩の高野さんと一緒に決勝に進出できたのは印象に残っています。
3年生では日本ジュニア、東海インターハイで優勝。ですが、その後に肺に穴が空きまして、、、。練習をしばらく休み、全国インターハイの5日前に初めて走りました。そんな状況でも110mHでは優勝、400mRでは8位に入ることができました。岩見とも一緒に決勝に進めましたし、リレーでは一人では味わえない喜びがありましたね。110mHの決勝はゾーンに入っていました。走る前に自分が優勝することを確信していました。
名門早稲田大学で感じたプレッシャー
高校卒業後、早稲田大学に進学しましたが、なかなか大変な4年間でした。1年生の時は東京での新しい生活に、寮生活。通常の練習だけでなく、寮の当番や朝練習もあり生活のリズムが狂いました。どれも一生懸命やり過ぎて歯車が狂った。暗黒の一年という感じでしたが、地元に帰ったときには名古屋高校で練習しました。原点回帰することが出来、少しずつ回復して行きました。
2年時には13秒台に入り、3年生では全日本インカレで優勝できました。嬉しいというよりホッとしたのが優勝の感想でした。それから主将を任されましたが、これがプレッシャーでしたね。歴史ある早稲田大学の主将ということで、競技は結果を出して当たり前、それ以外でも主将としての振る舞いが求められた。プレッシャーとストレスでよく微熱が出たりお腹が張ったりしていました。気持ちに余裕がなく、4年生の全日本インカレも日本選手権も6位でした。実業団に入ってやりたいという気持ちもあり、個人でも結果を出さなきゃいけないのに、チームのことも考えなきゃいけない。いろんな葛藤のある大学時代でした。
実業団での競技生活、そしてラグビー転向
オリンピックや世界陸上を目指して実業団に進みました。しかし、実業団での陸上生活は楽しむことができませんでした。常に結果を求められ、プレッシャーとの闘いでした。実業団3年目に13秒73の自己ベストを記録し、国体で準優勝することが出来ましたが、それ以上は無理でした。このままではオリンピックに行けないとわかり、実業団での競技生活を4年で終えました。ハードルを辞めて100mをやろうかと考えたこともありましたが、7人制ラグビーの存在を知り、これならチャンスがあるかも?と思ったのが転向の決め手となりました。2016年のリオ五輪を目指し、それでダメなら諦めようと2年限定で挑戦することを決めました。結局、オリンピックに出ることは出来ず引退することにしました。
引退、就職、そして復帰
2年で無理なら引退すると決めていたので、約束を守り地元愛知に帰りました。母校で保健体育の教員をしながら、陸上部の指導もしていましたが、東京オリンピックのことが頭から離れませんでした。子供の頃から夢だった「日の丸を背負って世界で戦う」という思いを叶えたかったんです。もう一度、ラグビーでオリンピックに挑戦しようと心に決め、復帰しました。
これからの飯田将之
2020年に東京オリンピックが行われたとして、出場が可能だったかと言われたら、可能性は限りなくゼロに近かったですね。それが1年延期になり、可能性が広がったかと言われれば、依然として可能性はほぼゼロ。でも、辞めてしまったら本当にゼロじゃないですか。「限りなくゼロに近いけど頑張る」これが今自分がすべきことかなと思います。あと3年くらいはラグビーを続けようとは思いますが、その後はどうなるかはわかりません。でも、自分が持っている能力を生かした仕事が出来ればとは思っています。固定概念には縛られず、挑戦していきますよ。
編集後記
インタビューの最後に語った「固定概念に縛られず、挑戦していきますよ。」との言葉が心に深く突き刺さった。それは、飯田自身が野球から陸上、そして陸上からラグビーへと、常に固定概念に縛られることなく挑戦してきたからに他ならない。実体験に基づいた重みのある言葉だからこそ伝わってきた。野球をやればプロレベル、陸上ではインターハイ、全日本インカレで優勝をしてきた彼だからこそ、ラグビーでもただでは終わらない気がしてくる。きっとそれは人生においてもそうなのだろう。これからの彼の躍進が楽しみだ。