日本人初の9秒台を出すのはあいつしかいない。
今から20年近く前に、陸上関係者の間でそう噂されていた男がいる。男の名は「山本慎吾」。その名前を聞いて納得する当時の陸上関係者も少なくない。数々の大会で優勝、ジュニア五輪や国体での全国制覇、年代別の日本新記録を樹立してきた。彼は間違いなくその世代のトップスプリンターだった。北京オリンピック400mリレー銀メダリストの塚原直貴と同学年の山本が、塚原に対して後塵を浴びた記憶はない。怪我をしていた時期を除いて考えれば、むしろ圧倒的な勝利をおさめ続けたのが高校1年生までの山本慎吾である。しかし、その後、彼が世界大会に出ることも、日本選手権の決勝に立つこともなかった。天才と呼ばれた男の陸上人生とはどのようなものだったのだろうか。
天才スプリンター現る
100m11秒73。山本が小学6年生の時に樹立した日本小学生新記録だ。この記録は2018年まで20年間破られることのなかった偉大な記録だ。山本は小学1年生の時に陸上を始めた。きっかけは父親と公園で遊んでいた時のことだ。近くで小学生の陸上クラブが練習していて、偶然にも父親の知人がコーチをしていた。「慎吾、陸上やらへん?」「うん、やる!」。そんな会話から陸上競技人生がスタートした。当時のことを懐かしそうに振り返る山本。「練習している6年生のお兄ちゃんお姉ちゃんがとにかく速くてカッコ良かった。自分もそうなりたいと思った」。その気持ちが山本のエネルギー源となった。小学校1年生にして、高学年のお兄ちゃんお姉ちゃんにいつもついて走った。怖いもの知らずで勝負を挑んだ。5、6年生に対して完敗する日々。週1回の練習では物足りなく自主練習を繰り返した。気づいたら小学校5年生の頃には負け知らずになっていた。地元大阪の大会では負ける気がしなかった。「絶対に日本一になる。」そんな思いを周りに伝えると、親にもコーチにも「絶対ムリやって、まぁ楽しんでおいで。」と言われた。山本はこの言葉にスイッチが入った。「これ、日本一になったらおもろいやん。」初めての全国大会は負ける気配もなく、優勝した。二位は後にセレッソ大阪に入団したサッカー少年の苔口卓也だった。
6年生になった山本は、夏の全国大会に向けての心持ちは5年生の時とは違っていた。前年度に全国大会二位だった苔口がテレビ番組で12秒台前半で走ったのを見たのだ。当時の山本自身はせいぜい12秒5で走るのがやっとだったため、不安に襲われた。しかも、全国大会1ヶ月前に成長痛で膝が痛くてたまらなくなった。大阪の練習会では女子選手にも勝てないほどだった。そんな中迎えた全国大会。プログラムを見ると、苔口君が100mにエントリーせず、リレーに専念していたのだ。山本は、「苔口君が出ていない。これはいける!」と不安だった気持ちが少し上向いた。しかし、5年生の時のように絶対王者のような自信は漲ってはいなかった。準決勝は全体2番目のタイム。決勝でも2位に甘んじた。山本の小学校時代の全国大会は悔しいものに終わった。
全国大会の後、山本は落ち着いて練習をすることができた。成長痛もおさまっていくにしたがって2ヶ月で数センチ背が伸びた。そんな中迎えた小学校生活最後の大会となる秋の近畿大会に臨んだ。「11秒台が出たら良いな」とは思っていたが、「小学校最後の大会だし、楽しく走ろう」と気楽に走った。ゴールしてタイマーに目をやると「11秒73」で止まっていた。「え!?出てるやん!」それが山本の率直な感想だった。こうして山本はその後、20年間も破られることのない偉大な記録を樹立したのだ。
11秒73の日本記録を出して以来、山本の周囲の状況は一気に変わっていった。5年生の時に「日本一になるんはムリやって。まぁ楽しんでおいで。」と言った大人たちの山本を見る目も変わっていった。全国優勝だけでなく、正真正銘の日本一の記録を掴んだ小学6年生の山本少年はその後、「天才スプリンター」として陸上界を歩んでいくことになった。(続く)