「東京オリンピックで俺はスターになる」
そう豪語するのは「練習しない」アスリート、藤光謙司だ。2020年5月に『「練習しない」アスリート(竹書房)』の初単著を出版した彼は、本当に練習をしないのだろうか。また、それで200m20秒13という世界レベルの記録を樹立することなど可能なのだろうか。リクゲキ取材班は、その真実を知るべく彼の合宿に同行させていただいた。彼の合宿での練習の様子や、インタビューを通して見えてきた等身大の藤光謙司をお伝えする。
1750mの高地での合宿
8月中旬、藤光は長野県のGMOアスリーツパーク湯の丸にて高地トレーニングに初挑戦していた。一週間程度の合宿を一人で行うことを予定していたところ、ユティックの倉部選手、そしてリクゲキ取材班の同行が決まった。かくして三名でのトレーニングがスタートした。数日前から合宿をしていたという藤光。高地でのトレーニングのねらいを「①心肺への負荷をかけ機能向上を図る ②高地で空気が薄いためスピードが上げやすく質の高い練習ができる」と語る。合宿のメニューは以下の通りだ(取材班が同行した日のみ)。
8月12日
午前(80分程度)
・ウォーミングアップ(マッサージ、ジョグ、ドリル、流し)
・120mのビルドアップ走3本(13秒1→12秒7→12秒1)※冒頭の動画にて公開
・クールダウン(ジョグ、マッサージ)
午後(120分程度)
・各種補強(腹筋、股関節周り、肩周り、マウンテンクライマー)
・ウエイトトレーニング(フルスクワット、ブルガリアンスクワット、ベンチプレス)
8月13日
・休養日(藤光選手は1日中オンライン会議などの仕事)
8月14日(80分程度)
・ウォーミングアップ(マッサージ、ジョグ、ドリル、流し)
・210m2本(2本とも21秒9)※冒頭の動画にて公開
・クールダウン(ウォーキング、マッサージ)
確かに練習の量自体は多くはないが、非常にスピードレベルの高い、質重視の練習だ。210mを21秒9だと、200m換算で20秒8程度になる。練習中、しきりに「今の1本は後半身体が浮きそうになった」「この1本は身体が浮かずに走れた」など、上体が浮かないよう腹筋に力を入れながら、地面に力を加えて走ることを意識していた。210mを走る直前にはトレーナーの補助を受け、腹筋に力を入れることで、走練習時にも腹筋で身体が浮くのを抑えられるよう意識づけをしていた。他にも常にトレーナーと相談しながら、フォームの修正などを行なっていたのが印象的であった。また、ウエイトトレーニングでは、ベーシックなメニューを丁寧に行なっていた。決して特別な練習ではないが、フォームの美しさが印象的であった。
驚異の体脂肪率0.8%で200m20秒13を樹立
合宿中、藤光選手の引き締まった肉体はまさにアスリートそのものだと感じた。話しを聞くと「体脂肪率0.8%」を過去に記録したとのこと。世界のトップアスリートでも体脂肪率3%が限界だと言われている。しかし、藤光はその限界を超え、不可能を可能にしていた。そこまで削ぎ落とされた肉体には全く無駄なものがなく、筋肉量も必要最低限に抑えられていた。藤光は「自分が持っている筋力を最大限活用することを意識している。筋肉をただつければ良いと言うことはなく、つければつけるほど移動させなければならない重量が重くなるわけで、技術的に難しくなる上に怪我のリスクも増す」と言う。藤光ほどの細身で世界レベルの記録を出せる選手は稀である。しかしながら、海外選手の筋骨隆々な肉体にはない、極限まで研ぎ澄まされた肉体が藤光の凄みであることは間違いない。
セイコーGPP、ANG2020の合間に見えた藤光らしさ
高地合宿を終えた藤光は1週間後の8月23日にセイコーグランプリ陸上の200mに出場(怪我の回避のための途中棄権)。そして、8月29日にアスリートナイトゲームズin福井の200mに出場した(21秒44)。その合間には、YouTube上で「藤光謙司」の名前を見ることが増えた。陸上系YouTuberのチャンネルに連日登場していたのだ。試合に向けての調整のことを考えれば自身の練習に集中する選択もできたであろう。しかし、藤光は陸上系YouTuberたちと交流し、そして自身の知識や経験を惜しげもなく視聴者に披露してくれた。その姿は、彼の「陸上選手がもっと個人ブランディングをして”アスリートの価値”を高めていく必要がある」という意志の表れにも見えた。それが”藤光らしさ”であり、陸上界にとってなくてはならない存在であるということを再認識させられた。
東京オリンピックでの目標、夢、そしてこれから
合宿の最後に、東京オリンピックに向けての意気込みと、その後の人生における夢や目標について、彼の思いを聞くことができた。
藤光「アスリートとして、起業家として、そして一人の大人として、あらゆることにおいて中高生アスリートたちの目指すべき指標、一つの星になっていきたい。今後の展望として、陸上競技を通して未来のスター達をつくっていく。陸上競技というスポーツを使って、スターと言える人材を生むことができるという希望を日本全体に与えたい。競技者としてもだし、競技以外の面でも一人の人間として、人生の中で何か生んでいけるような人材をつくる。競技をやっている時も大事だし、競技をしていない時の人生も大事だから、全部含めて中高生たちの目指すべき存在に自分はなります。」
アスリートとしての活動に加え、合宿の休養日も朝から夜遅くまでオンライン会議に出席し、自身が代表を務める一般社団法人アスリートオーナー、株式会社ニューネックスでの活動にも全力投球している。それは、「アスリートの価値を高めたい」と言う彼の根本にある熱い思いから来るものだ。彼ほどの実力があれば実業団に所属し、支援を受けながら競技に集中することもできたはずだ。しかし、彼があえて起業家として活動するのは、前例をつくり、アスリートのデュアルキャリアを創出する希望の星になるという意志からだ。そんな、日本のスター”藤光謙司”のこれからが楽しみだ。
編集後記
今回、藤光選手の合宿に同行し、彼の志の高さに触れることができました。練習では、極めて質の高いメニューを取り入れ、短時間で効率的に行っているのが印象的でした。練習の前後や宿舎でもトレーナーにマッサージを受けており、身体のケアは徹底的に行なっているという印象でした。そのような練習の質、ケアへのこだわりが、34歳になってもなお世界への挑戦を続けられる秘訣だと感じました。200m20秒13の自己ベストを出した海外の大会での裏話も教えていただきましたが、過酷な状況と不運も重なったレースで出した20秒13だったと聞き、思わず「それがなければ日本人初の19秒台でしたね」と言ってしまいましたが、「それは、”たられば”だからね。過酷な状況と不運があったからこそベストが出たかもしれないし。」と爽やかに笑う藤光選手。さすが一流アスリートは器が大きいと感動しきりでした。