支える側で見つけた、本当の強さ 日本大学 荒⽊ ⽇成

支える側で見つけた、本当の強さ 日本大学 荒⽊ ⽇成

2025.12.21
インタビュー

バスケットボールが中心だった少年が、走ることに人生を預けるようになるまで――。
きっかけは、小学生の頃に出場した陸上大会での県大会優勝だった。努力がそのまま結果に返ってくる世界に魅了され、中学、高校、大学へと歩みを進める中で、数えきれない壁と向き合ってきました。
結果が出ない苦しさ、仲間が去っていく現実、そして選手からマネージャーへの決断。
それでも陸上から離れなかった理由はただ一つ。“このチームで、箱根を走りたい”
走らない選択をしたからこそ見えた、日本大学駅伝チームの“本当の強さ”。

そんなチームを支え続けたームに対する熱い想い”の物語です。

陸上との出会い

陸上との最初の出会いは小学生の頃でした。当時はバスケットボール中心の生活だったものの、試しに出場した陸上の大会で県大会優勝。「陸上もやってみたら?」と言われるようになり、小学校ではバスケと陸上、さらにハンドボールなど複数のスポーツを経験していました。

中学でも当初はバスケが好きで、背が低い自分にとっても一番熱中していたスポーツでした。しかし同時に800m1500mにも取り組み、週2回の練習でも結果が出ていたため、陸上も同じように楽しんでいました。
「全国大会へ行けたら、高校では陸上一本の道にしよう」。そう思うようになった2年生の頃、身長も伸び悩み、バスケでは壁を感じ始めていました。一方で陸上は努力した分だけ結果がついてきて、見事3年生で全国大会へ出場。陸上競技の道へ進むことを決意しました。

山形県には強豪校が少なく、県外に目を向ける中で、山形県出身の監督がいる学法石川高校の存在を知り、進学を決めました。

高校で過ごした3年間

全国から選手が集まる寮生活。初めて自分のレベルの低さを痛感しました。練習のスピードも量も桁違いで、自信をなくす日々。それでも強い選手の練習を見ながら“自分にできることをやろう”と必死に食らいつきました。

12年生は貧血もあり思うように結果を残せませんでした。しかし、3年生になり少しずつ力がつき、理想には届かなくても、“やれることは全部やった”と言える3年間でした。
時には怒られたり、練習についていけなかったり――辛いことの方が多かったものの、その経験全てが自分を強くしてくれたと思います。

日本大学を選んだ理由

顧問の先生からいくつか候補を示してもらった中で、日本大学を選んだのは「箱根駅伝に直近は出られていないものの、速い選手が揃っている、これからが楽しみな大学だ」と聞いたからでした。
高校で陸上を続けた以上、大学でも挑戦したい。結果が伸びない中でも“箱根駅伝を走りたい“という思いは消えていなかったため、日本大学で競技を続けることを決意しました。

大学1――期待を抱いていたものの・・・

 

入学後、さっそく寮生活が始まったものの、監督は不在で、部員も何人か退部してしまうというスタートでした。それでも同級生たちと励まし合いながら前向きに過ごしていました。練習は高校時代とは異なり、長い距離、駅伝向けのメニューに苦戦しましたが、“4年間あれば大丈夫”と自分を鼓舞しながら取り組みました。

大学2――最も苦しかった時期

新監督が就任し、寮の体制も練習メニューも激変。変化についていけず、結果も伴わず苦しい時期が続きました。また、同級生も数人減ってしまいました。
仲間が減っていくことがあまりに辛く、“このままでは自分も続けられない”と当初は感じていました。

その頃、“選手からマネージャーを出す”という方針が示され、自分の胸のどこかで“その話が自分に来るのかもしれない”という予感がありました。

大学3――マネージャーへの転機

新体制のチームに対応できるようになり、走力も少しずつ戻ってきていました。しかし、箱根駅伝に出られる自信はずっと持てないままでした。

そして、全日本大学駅伝の2日後。
監督から「マネージャーになってほしい」と告げられました。正直、最初は“選手として走りたい”という気持ちが強くありました。しかし同時に、“箱根駅伝に出る自信はない。支える側に回るのも一つの道かもしれない”と思うように。

高校の恩師に相談した時に、「監督が荒木だからこそ言っている。その期待に応えたらどうだ?」と言われ。そこで、“挑戦せずに決めるより、やってから決めよう”と腹を括りました。

マネージャーとしての1

6月から正式にマネージャーとしての仕事が始まり、最初はすべてが初めてで、戸惑いの連続。タイム計測、選手管理、監督との連絡、パソコン作業――どれも簡単ではありませんでしたが、同級生に助けられながら一つひとつの仕事を覚えていきました。

主務としての役割

“監督と選手の架け橋になること”を心がけていました。

選手の経験があるからこそ、できるだけ選手の気持ちに寄り添うように。選手の調子やメンタルを把握し、必要な声をかける。そして監督・コーチの意図を伝え、チーム全体が同じ方向を向くよう支える。それが自分の役割だと思い、常に行動していました。

印象に残る選手たちの成長

同期の大仲、中澤です。1年生の頃は大人しく、自分を出せなかった2人。4年になり、チームを引っ張る存在へと成長してくれました。

また、滝澤も、高校時代は全国で活躍する注目選手だったものの、大学入学後はかなり苦しんでいました。しかし4年生になり見違えるように復調し、今ではチームにとって欠かせない存在です。

彼らの変化を近くで見てきたことは、支える立場として大きな喜びでした。

 チームとしての歩み

全日本予選を通過できたことは嬉しい瞬間でした。1年目は先輩方のおかげ、23年は出場できず、そして4年目でようやく掴んだ切符。

自分たちの代で達成できたことが何よりもの喜びでした。
一方、昨年の箱根駅伝では最下位。体調不良者が続出し、歯が立ちませんでした。しかし、その失敗があったからこそ、“もう二度と同じことを繰り返さない”と、体調管理やケア面の改善を徹底してきました。

そして今のチームは、普段こそ和やかな雰囲気ですが、練習になるとキャプテン、副キャプテンを筆頭に、スイッチを入れ、見違えるように練習に励みます。

飛び抜けたエースがいない分、総合力で戦うのが今の日大の強さです。

主務としての1年、そして箱根駅伝へ

「支える側なのに、支えられた」

主務としてチームを支えようとしていたものの、実際は同期をはじめ選手たちに助けられる場面が多くありました。
だからこそ、最後は自分がチームを支えたい。そして――シード権を取り、みんなで“笑って終わりたい”です。

最後に──選手へ、チームへ、そして応援してくれる方々へ

◆選手へ

残りの日数で劇的に強くなることはありません。今できる最大限の準備をして、箱根駅伝で日大の未来を切り開いてほしいです。

監督・コーチへ

感謝しかありません。
チームが崩壊しかけていた時期から立て直し、ここまで強くしてくださった。 その姿を近くで見てこられたことは、自分の誇りです。

家族へ

走る姿は見せられなかったけれど、今の自分にできることを全力でやってきました。見えないところでずっと支えてくれて、本当にありがとうございます。

応援してくださる皆さまへ

日本大学を応援してくださる方々にはとても感謝をしています。選手はこの日のために努力を重ねてきました。ぜひ温かい応援をよろしくお願いします。

そして全国のマネージャーの皆さん。大会運営やサポートの現場で、多くの方々に助けられました。心から感謝をしています。

INTERVIEWEE

荒⽊ ⽇成

荒⽊ ⽇成

日本大学 陸上競技部 長距離部門 主務

WRITER

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熊谷遥未

2001年11月16日東京都出身。田園調布学園を経て法政大学に進学。2023年の日本選手権では、女子400m決勝進出という実績を持つ。自己ベストは400m54.64(2024年8月現在)。現在は、青森県スポーツ協会所属の陸上選手として活動する傍ら、2024年9月より陸上メディア・リクゲキの編集長を務める。