悔しい思いを糧に、夢に突き進むデカスリート ー 成松遼

悔しい思いを糧に、夢に突き進むデカスリート ー 成松遼

2020.06.24
2023.12.13
インタビュー

「高校時代は良い思い出よりも、悔しい思い出の方が圧倒的に多いですね。高校時代に一番嬉しかったことと言えば、3年間一緒に練習してきた柴田涼太郎が全国インターハイの走高跳で優勝したことですかね。同記録のジャンプオフで競り勝っての優勝だったので、本当に嬉しかった。自分のことのようにみんなで喜びましたね。」

そう語るのは成松遼。大阪体育大学の2回生だ。高校時代に一番嬉しかったことが、自分自身のことよりも仲間の活躍だったと言うところに彼の人柄の良さが滲み出ている。そんな彼の陸上競技人生とはどのようなものだったのだろうか。

高3の県インターハイにて。共に戦ったライバルであり仲間たち。
高3の県インターハイにて。共に戦ったライバルであり仲間たち。

不甲斐ない思いをしていた中学校時代

成松は小学1年生時に陸上を始めた。小学校6年間は指導者の方針もあり様々な種目に取り組んだ。走、跳、投、全ての種目に幼少期から慣れ親しんだことは、現在にも生きていると言う。中学校は地元の播磨中学校に進んだ。主に100m、走高跳に取り組んだが、県大会に進むのがやっとのレベルであった。成松は一生懸命に取り組んではいたが、顧問が陸上未経験の吹奏楽出身の先生だった。そのため練習メニューは生徒たちで考え、選手たちで練習を進めるという形だった。

「隣の播磨南中学校は優秀な指導者の方が顧問だったので羨ましかったですね。その先生が転勤して来てくれたら嬉しいと思っていましたが、それもなく、、、。もどかしかったし、残念でしたね。ずっとモヤモヤしていました。」

モヤモヤを抱えながら中学校3年間を過ごしたが、播磨南中の顧問は成松のポテンシャルを見抜いていた。練習会で「君は伸びるよ。社高校に進学すると良いと思うぞ。」と声をかけてもらったのだ。成松はオープンスクールに参加して社高校の体育科への進学を決めた。

名門・社高校の強さの秘密

名門社高校の伝統を胸に競技に臨む成松
名門・社高校の伝統を胸に競技に臨む成松

社高校に進学してから成松は大きく成長した。その要因を聞くと、「仲間の意識の高さ」「仲間の競技レベルの高さ」があったと言う。中学校では満足に指導もしてもらえない状況の中、手探りで練習をしていた。しかし、社高校では歴代受け継がれてきたメニューと仲間の意識・レベルの高さが成松の成長を後押ししたのだ。練習についていくのがやっと、始めはむしろついていけないくらいに周りが強かった。そして先輩が卒業しても、全国大会で優勝するような後輩が入ってきて、一瞬たりとも気を抜くことができなかった。

「とにかく負けん気が強い仲間たちでしたね。練習の時から、チームメイトに絶対負けたくないと競い合っていました。向上心の塊みたいな人ばかりでしたよ。」「一番しんどかった練習は、500m1本+400m2本+300m3本+200m4本+100m5本ですね。勝ち上がりで競い合うメニューだったので、これが本当にキツかった。」

それも今となっては良い思い出であり、強くなった要因なのだ。また、高校に入ってからは親元を離れ寮生活をしていたという。嫌なこともたくさんあったというが、それによってメンタルも鍛えられたのだと言う。こうして、成松は心身ともに成長していったのである。

自分の甘さに気づいた高校2年の夏

高校2年時の県インターハイ。最初の種目100mに臨む成松。(写真左)
高校2年時の県インターハイ。最初の種目100mに臨む成松。(写真左)

現在専門種目としている混成競技は高校2年生のときに初めて試合に出場した。2年生ながら激戦区の兵庫県で5位に入賞したが、混成競技は4位までしか近畿大会に進めない。あと一歩のところで近畿大会を逃したのだ。しかも、6種目終了時点では余裕で4位以内には入れるだけの得点を獲得していた。それだけに油断が出た。「これだけあれば抜かれないだろう。近畿大会はいけるだろう。」そういう慢心があった。最終種目を終え、数点差で5位に転落。自分の甘さが情けなかったと言う。この時、成松は一緒に試合に出ていた先輩が泣き崩れていたのを見た。その先輩から「お前は来年頑張れよ、、、。」そう声を掛けられた。自分のことだけで精一杯なはずの先輩が、そのような言葉をかけてくれたことが嬉しかった。「正直、その先輩とはあまり仲が良かったとは言えなかったが、家に帰ってから先輩の心の大きさを感じた。」と今でも心に残る出来事だった。

高校ラストシーズン

チームの仲間たちと。旗を持つ成松
チームの仲間たちと。旗を持つ成松

高校3年生時には県大会で優勝。近畿大会にはランキング2位で出場。しかしこのランキングが彼に強いプレッシャーを与えた。

「全国インターハイに出れない方がおかしい。絶対行かなあかん。」

追う立場から追われる立場になったことで、精神的にキツかった。前半で得点を稼ぎ、後半逃げ切るスタイルだったため、他の選手の後半の追い上げが怖かった。「もうやばい、もうやばい」と思いながら競技を続けた。わずか3点差で7位に沈んだ。1500mにしてわずか0.5秒で全国インターハイを逃したのだ。悔しいというよりも情けなかった。インターハイを逃した後は、8月の全国選抜大会を目指すもわずかに届かず。悔しい形で高校陸上生活を終えた。

大学進学して見えてきた目標

チームの仲間たちと。旗を持つ成松

高校卒業後、大阪体育大学へと進学した。仲間にも環境にも恵まれ、高校から大学への移行もスムーズにできた。種目数も10種目に増えたが着実に自己ベストを更新してきた。高校時代に全国インターハイに出場したライバルたちにも勝てるレベルまで実力を高めてきた。コロナの自粛期間中も考えうる手を尽くして練習を積んでおり、衰えるというより身体はむしろ良い状態に仕上がっていると言う。

「高校の時はプレッシャーと戦っていてしんどかったですが、今は楽しいですよ。関西の大会では、他校の選手もライバルなんだけど仲間みたいな感じで。高跳びでクリアしたらみんなで拍手して盛り上げて。ノリが良くて明るい人たちが多いので楽しく競技ができています。」

大学での成松は、高校時代とは違いプレッシャーから解放されていた。そんな中抱いた目標がある。一つは全日本インカレで入賞。そしてもう一つは関西学院大学の憧れの先輩に勝つこと。今ではむしろ憧れの先輩に勝つことの方が大きなモチベーションとなっている。

夢、そしてこれから

関西の仲間たちと。敵味方関係なく互いを称え合う瞬間
関西の仲間たちと。敵味方関係なく互いを称え合う瞬間

成松には中学生の頃から思い描いていた夢がある。それは中学校の陸上部顧問になり生徒たちに陸上競技の楽しさを伝えることだ。この夢の原点は中学校時代に顧問に恵まれなかったことにあるという。生徒が頑張ろうとしていても、それを支える顧問に陸上の知識や指導力がないと生徒の力を開花させるのは難しい。中学校時代の自分自身のような思いをする生徒を減らしたい、というのが強い原動力になっている。今回のインタビューを通して、冒頭の言葉が最も印象的だった。高校時代に一番嬉しかったことに仲間の活躍を上げる成松なら、生徒の活躍を誰よりも喜ぶ良い教師になるに違いない。悔しい思いが多かったからこそ生徒に語れることもあるだろう。そんな彼の今後の活躍が楽しみだ。(完)

 

INTERVIEWEE

成松 遼

兵庫県生まれ。
播磨中学校、社高校卒。小学生時代から陸上競技に取り組む。中学校時代は100m、走高跳を中心に取り組んだ。兵庫県の名門社高校に進学後、混成競技に取り組む。2年時に県大会5位、3年時には近畿ランキング2位で臨んだ近畿インターハイで7位。高校時代は上位大会をギリギリのところで逃し苦汁を飲んできた。大阪体育大学進学後は上級生や社会人相手に近畿選手権4位に入賞。走幅跳では7m23を記録するなど、跳躍種目と得意としている。
10種競技の自己ベストは6344点。

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リクゲキ編集部

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