リクログ

競歩にかけた13年間の熱い記憶 ー 占部磨美

占部磨美
自動車メーカー 陸上競技部OG

同志社国際中学高等学校、同志社大学卒業後、自動車メーカーに就職。中学2年生までアメリカで様々なスポーツに取り組んだ。帰国後、中学時代はバスケ部に所属。高校1年生の夏に陸上部に転部し、中長距離に取り組んだ。怪我をきっかけに競歩に転向、すぐに才能を開花させ3年時にはインターハイ準優勝。同志社大学進学後も、全日本インカレで準優勝。その後、実業団で競技を続けた。オリンピック出場を目指し、標準記録Bを突破するまでに記録を伸ばした。2016年元旦のレースで引退。

「このインタビューを受けると決まってから、引退以来ずっと封印していた日記や写真を見直しました。そしたら泣けてきて、、、。特に2013年の日記、ずっと見ないようにしていました。それを見たときに、たくさん涙が溢れてきて、、、あんなにも熱い気持ちで競歩してたんだなって。たくさんの仲間が応援してくれて、支えてくれて、、、熱い気持ちが蘇ってきて、、、。」

そう涙を流しながら語るのは占部磨美。数々の実績を重ねてきた元競歩選手だ。その涙は、彼女にとっての競技生活が”熱い青春の1ページ”であったことを強く感じさせる。その熱い競技生活に迫る。

陸上競技との出会い

同志社国際高校の仲間たちと(前列左から3人目)

私は中学2年生までアメリカにいて、いろんなスポーツを経験しました。その中でもバスケが一番好きで、日本に帰ってからはバスケ部に入りました。その後、高校1年生の夏に陸上競技に転向しました。中学校時代にバスケでとにかく沢山走らされていて、持久走の結果が結構良かった。高校に進学して陸上部も良いかなと思って見学に行ったら雰囲気もすごく良くて。それで陸上部に入ることにしました。

中長距離から競歩への転向

怪我をきっかけに競歩を始めた(右から2人目)

陸上部では最初、800mから3000mの中長距離をやっていました。ですが、これ「競歩選手あるある」なんですけど、怪我をきっかけにリハビリで競歩をやり始めました。その時は正直、「歩くだけで練習しなくていい!ラッキー!」と不謹慎にも喜んでいました。でも、同志社国際の競歩パートは選手もそれなりにいて、意識の高い人も多かったですし、雰囲気もすごく良かったんです。先輩にはドリルや動き作りを教えてもらいましたし、先生に勧められて京都府の競歩練習会や試合にも出るようになったんです。

そして、今でも覚えてるんですけど、ある試合の前日に3000mのタイムトライアルを2本やったんです。1本目は全然ダメで、グランド横のトイレで「もう嫌だ、、、」ってため息をついてたんです。そしたら、偶然そこにいた掃除のおばちゃんが、すごく励ましてくれたんです。それで気持ちを切りかえて2本目に臨んだらタイムが良かったんです。みんなの期待以上のタイムが出せて、競歩をやっていこうと思えましたね。あのトイレ掃除のおばちゃんがいなかったら、競歩をやめていたかも知れませんね。

一気に駆け上がった高校時代

2005年インターハイ準優勝

1年生の冬に日本選手権、高校ユースの部3000m競歩に出場したんです。自分の実力もよくわからないまま出場したらなんと3位でゴールできたんですよ!しかも!それで喜んでいたら、その後にまさかの1位と2位が失格になったんです。まさかの日本選手権優勝!それで自信がつきましたね。

2年生の時は近畿インターハイですかね。全国ランキング10位くらいだったので、インターハイには進めると思っていました。実際、近畿インターハイもゴール手前10mまで2位だったんです。「よし!インターハイ行ける!」と確信したまさにその時に、失格になったんです。悔しくて悔しくて。それからの練習ではずっとその時の映像を頭に思い浮かべては頑張ってましたね。もう2度とあの時のような悔しい思いはしたくない!って。

3年生では、全国インターハイですかね。ランキング的には5位くらいに入れたら良いかなって思っていました。世界ユースに出るような選手もいたので、絶対優勝するぞ!っていう強い目標とかはあまりなくて、でも入賞はしたいとは思っていました。なので、準優勝した時は、深い感動というよりは「おっ!2番!」っていう感じでした。

孤独から仲間の大切さを知った大学時代

大学時代の仲間たちと(写真左)

同志社大学の附属高だったのでそのまま進学しました。練習場所も高校時代と同じです。しかし、場所は同じでも状況が大きく変わりました。高校時代は競歩パートは5.6人いて、明るく楽しく切磋琢磨していたんです。しかし、大学ではほとんど1人で練習していました。特に1年生の時はずっと1人でした。しかも歩く距離が3000mから5000m、10000mに伸びて、「距離は伸びるし、練習は1人だし、どうしよう、、、」って感じでしたね。とにかく寂しかったです。でも、大学2年に上がった時に、競歩経験者の鶴崎君という新入生が入ってきてくれて。彼の存在が本当に大きかったです。競歩の経験は浅い子でしたが、とにかく真面目で。「占部さん、今日のメニューはどうしますか?」とか、「フォームをどう直したら良いですか?」って聞いてくれて、こちらも先輩として「しっかりしなきゃ!」と気合が入りましたし、緊張感をもって練習に臨むようになりました。それまでは、1人でのんびりとやっていたので。鶴崎君に感謝ですね。

後にロンドン五輪に出場した我孫子智美と

その翌年にも競歩の後輩が入ってきてくれて。その後輩たちの存在もあって、大学に入ってからは毎年自己ベストを更新しました。あとは、同級生の我孫子さん(棒高跳日本記録保持者)の存在は大きかったですね。種目は違いますが、いつも彼女から刺激を受けていました。全日本インカレでも1年生から順に10位、7位、4位、2位と順位を上げることができました。2学年下には白石さんという後輩が競歩パートに入ってきてくれて、最後の全日本インカレには一緒に出場できて嬉しかったですね。

実業団での競技生活、そして涙のラストレース

実業団の仲間と(写真真ん中)

実業団では6年間の競技生活でしたが、本当にいろいろありました。そもそも大学で陸上を辞めようと思っていました。大学4年生の就職活動の時に夢があって、そちらにシフトしようと思っていたんです。でも、面接とかを受けていく中で、なんか違うな、、、と思い始めた。そして、もっと競歩を極めたいと思うようになったんです。少しでも陸上ができる環境を、ということで今の会社を選びました。でも、仕事との両立は大変でした。がむしゃらに練習して、怪我をして、嫌なことが重なってメンタル的にもボロボロでした。存在意義が分からなくなり、人とも話したくなかった。今思うとかなり追い込まれていましたね。

2016年元旦 13年間の競技生活から引退

その時期にはいろんな勉強をしました。リハビリをしながら、メンタルトレーニングをしたり、心理学の勉強も。また、社会人3年目には我孫子さんがロンドンオリンピックに出場し、彼女からは刺激を受けたし、元気も沢山もらいました。そうしているうちに、身体的にも精神的にも回復していきました。その後、オリンピックを目指し、必死に頑張りました。ひとりで35km歩いた日もありました。そうやって頑張って、世界大会の標準記録Bも超えることができて。でも、そこが限界でしたね。仕事も多くのことを任されるようになり、仕事ももっと頑張ろうと思うようになったんです。両立するのが難しくなり2016年の元旦のレースを引退試合に決めました。引退レースのことはあまり人には言っていなかったんですけど、たくさんの仲間や友人が応援に来てくれて。アップの時から号泣。レース中も号泣。レース後も号泣。ずっと泣いてましたね。

13年間の競技人生を振り返って

引退レースには多くの仲間が駆けつけた(写真中央)

実は、このインタビューを受ける前に、過去のことを思い出すために、ずっと見ないようにしていた過去の写真や日記を見返したんです。そうしたら涙が止まらなくて。引退して、結婚して、子どもが生まれて、、、13年間続けた陸上は一区切りつけたつもりだったんです。私にとっての陸上競技は、趣味として続けるものじゃないと思っていました。だから、封印してました。でも、私にとって陸上競技、競歩はかけがえのないものだった。高校、大学では仲間たちと切磋琢磨して、みんなで熱く陸上に向き合って。2013年の日記は特に辛かったから読みながらすごい涙が出てきました。でも、家族や多くの仲間たちが応援してくれて、支えてくれて。悩むことさえ貴重なことだったなって、今なら思えます。振り返ると、あの時の熱い気持ちが蘇ってきました。特に、そういう熱い気持ちを共有した仲間や支えてくれた人たちには感謝の気持ちでいっぱいです。

編集後記
この記事が出来上がる頃、彼女に連絡を取った。すると、「こないだのインタビューの後、感情を抑えきれなくてかつての仲間に電話しましたよ。また、泣けてきました。」と返事をもらった。彼女は陸上の過去の話をすると、どこまでも涙もろい。それは熱い思いをもって陸上競技に取り組んだからこそであろう。引退以来、過去の記憶を封印していたと言うが、私は封印することなく、そこで培ったものを自信にして前に進む力にして欲しいと心から思った。これは、黙々と一人歩き続けた大学1年時の彼女を知る私からのエールとして送らさせていただきたい。

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