「マラソンが速いから、駅伝部へ来ないか」中学2年の冬、その一言が人生を大きく動かした。野球少年だった彼は、走ることで“自分の力がそのまま結果になる世界”に魅了されていく。
怪我に苦しみ、思うように走れなくなった高校・大学時代。それでも陸上から離れることはなかった。選手としての限界、マネージャーとしての覚悟。
箱根駅伝を目指し続けたその歩みは、走る立場を変えてもなお、チームの中心で脈打ち続けている。
これは“走れなくなっても、陸上を選び続けた”覚悟の物語です。
陸上競技との出会い
中学2年の冬。野球部に所属していた私に、“マラソンが速いから”ということを理由に「駅伝部へ」と声をかけていただいた――その瞬間がすべての始まりでした。

野球は、どれだけ自分が良くても一人の力では勝てない。チームの流れに大きく左右される難しさがありました。一方で陸上は、自分の走りがそのまま結果につながる。スタートからゴールまで一気に駆け抜ける爽快感。そして走り終えた後に全身を満たす達成感。気づけば、その両方に強く惹かれていました。
それからは“野球のシーズンが終わったら陸上競技を”。という生活を続けるようになりました。
進学先の高校は、直近で甲子園に出場していた強豪校。野球を続ける道もありました。しかし、自分の実力と、陸上で感じていた純粋な楽しさを天秤にかけた時、“陸上でもっと上を目指したい”と決意し、陸上競技の道へと進みました。
高校時代:結果と怪我のはざまで
高校入学後、最初こそ順調に結果がついてきました。努力が形になる喜び。走ることの楽しさ。そのすべてを感じながら、成長していきました。
しかし冬になると、脛骨の疲労骨折を発症。その後も怪我が続きました。野球のように“他の練習方法で補う”ことができず、“走らなければ前に進めない”という陸上の厳しさが身に染みていきました。気持ちの整理がつかず、苦しい時期が続きました。
それでも治療院に通い、原因を探り、ストレッチやケアを見直しながら、少しずつ体を取り戻していきました。
迎えた3年の春。怪我からの復帰後、走りの感覚が研ぎ澄まされていくのを確かに感じました。4月の3000mでは、当時の高校生歴代10位の記録を出し、U20日本選手権3000mにも出場。“自分の感覚に素直に向き合えば前へ進める”そんな確信が芽生え始めていました。
中央大学へ――「ここなら成長できる」と確信した理由
高校時代に苦しんだ怪我や焦り。そのすべてに、藤原監督は誰よりも寄り添い、同じ目線で話を聞いてくれました。さらに、中央大学に帯同している大阪体育大学教授・石川さんの、感覚・課題・アプローチを言語化するわかりやすい説明。この二つの存在が、迷いなく中央大学を選ぶ決め手となりました。

大学1年:心の空白
高校3年の冬に膝の手術を受けていたため、他の選手よりスタートは遅れました。
それでも練習を重ね、6月にはU20日本選手権3000mで6位。手応えを感じた、本当に嬉しい瞬間でした。
しかし夏以降、疲労が抜けず、心も身体も追い込み切れない状態に。走っているのに、良い感覚だけがどこかへ置き去りになっていく――そんな、苦しい日々が続きました。
大学2年:練習と成果が結びつかない難しさ
山本コーチが練習を見てくださるようになり、自分のレベルに合わせた“練習の消化”ができるようになっていきました。
身体の反応も分かるようになり、積み上げの手応えも感じていましたが、試合に出ると結果が伴わない。“練習と結果が結びつかない”。そのもどかしさだけが積み重なっていきました。
新チーム結成のタイミングで、選手から一人マネージャーを出すことになり、学年で話合いを重ねました。自分自身、結果が出ず悩んでいた時期でもあり、“終止符を打ってもいいのでは”と考え、マネージャーとしての道を切り拓くことにしました。
走れない悔しさと、マネージャーとしての覚悟
大学に入学した時、私のスタートラインは“箱根駅伝を走る”ことでした。
しかしそのスタートラインにすら立てないまま陸上人生が終わる。
悔しさ、寂しさ、積み上げてきた日々が消えてしまうような喪失感――そのどれもが簡単に癒えるものではありません。

それでも、心に決めたことがありました。
「選手には選手の役割がある。マネージャーにはマネージャーの役割がある」
「走れないなら、今いる場所で全力を尽くす」
その覚悟を胸に、今度はチームのために、自分の経験を惜しみなく活かすと決めました。
マネージャー1年目:手探りの挑戦
最初の1年は、とにかく“やってみる、チャレンジしてみる”の連続。
時にはミスをして、時には怒られることもありました。
それでも“まず動くのは自分だ”という自覚を持ち、積極的に行動し続けました。
目の前の仕事一つひとつに全力で向き合う、そんな日々でした。

主務へ:責任を背負う重さ
元々選手上がりということもあり、4年生で主務を務めることは薄々感じていました。
しかし実際にその役職を担うと、“自分に務まるのか”と震えるほどの責任を感じることも。
それでも、どんな状況でも迷わず動く“行動力”、折れずに進み続ける“タフさ”を武器に、広い視野でチーム全体を見渡しながら積み上げを続けました。
選手との距離を作りすぎず、自然体で話せる空気を整え、監督と選手の橋渡し役も務めました。

やりがいを感じる瞬間
自分のサポートが、選手の頑張りにつながったと感じる瞬間。
走るのは選手ですが、その裏側を支えることができたと実感するたびに胸が熱くなります。

そして、自分が選手だった頃より2歩、3歩、先を走る今の選手たちを見ると、“自分も負けられない”と刺激を受けています。
今年のチームについて
出雲駅伝、全日本大学駅伝も、掲げていた目標には届かず、積み上げが足りなかった現実を突きつけられました。今年の駅伝シーズンは悔しさの連続でした。

そんな中で迎えたMARCH対抗戦。
昨年、監督が掲げた“今年度は27分台10人”という目標。その言葉にチーム全員が本気で挑んできました。岡田、藤田、溜池、濱口――彼らの果敢な挑戦、そして結果。さらに多くの選手が好記録を叩き出し、“チームがひとつになっている”と強く実感した瞬間でした。
チームの強さーーそして、主将の存在
それは、爆発力です。
全員が噛み合えば、箱根駅伝で優勝を狙える――本気でそう思える力があります。
特にキャプテン吉居の存在は、チームの熱に火をつける着火剤。
彼がキャプテンだったからこそ、今年の中央大学はひとつにまとまりました。結果でも行動でも示す、最高のキャプテンです。

忘れられない選手の表情
5月の全日本予選会。
同期の吉中が悔しさで泣きそうになっていた表情が、今も脳裏に焼きついています。
彼は、私が選手だった頃に怪我で入学し、初レースを共に支えた仲間でした。力をつけ、トップのメンバーと同じ練習ができるようになってきた中での、あの悔しい結果。
責任を背負う姿を見て、“彼のために自分に何ができるか”を考え続けるようになりました。選手たちの悔しさの一つひとつが、主務としての原動力になっています。

箱根駅伝への想い
箱根駅伝は、“最後のレース”です。当たり前の日常が終わりを迎える寂しさと悲しさ。
それでも今は、優勝へのワクワクが勝っています。“この状態なら、いける”
心からそう信じています。
選手を支えた時間にタイトルをつけるなら——「濃」
主務として過ごした日々は、選手として走っていた頃よりも、はるかに濃密でした。
学び、悔しさ、喜び――すべてが自分を大きくしてくれました。
“今できることを、どれだけ面白く、楽しくやれるか”
そう考えながら過ごした時間は、どれ一つ後悔のない、大切な思い出です。
最後に──選手へ、チームへ、そして応援してくれる方々へ
◆選手へ
とにかく楽しんできてほしいです。
迷惑をかけることもあったけれど、そんな自分を主務として受け入れてくれて、本当に感謝しています。
◆監督へ
多くのご迷惑をおかけしましたが、最後までチームの力になれるよう、全力でやり切ります。
◆マネージャー陣・家族へ
同期のマネージャーをはじめ、ついてきてくれた仲間には感謝しかありません。
家族にも、ずっと支え続けてくれたことへ感謝を伝えたいです。私がここまで前へ進めたのは、いつも後押ししてくれる存在があったからです。
◆応援してくださる皆さまへ
第102回 箱根駅伝 。中央大学を応援してください。チャンネルを変えずに、最後まで応援をよろしくお願いします!