不登校だった中学生が今では陸上界で有名な選手へ。
異色な経歴を持っている彼の「今までの人生の裏側」、そして彼には陸上選手として活躍したいという目標に加え、大きな夢があるという。その夢についてもお伺いしました。
陸上との出会い
ーーそもそも中学生の頃不登校だったと聞きましたが…
濱田:ゲームに夢中で、中学2年生まで不登校でした。(笑)それでも、高校には進学したいと思っていたので、3年生になってからようやく学校へ通い始めました。
ーー不登校から陸上。どのようにして陸上と出会うことに?
濱田:ある日、体育の授業で「走り高跳び」を行った時に、同じクラスにいる走り高跳びの選手よりも高く跳べたんです。その時、勝つことに喜びを感じ、次の日に速攻陸上部へ入部しました!
顧問の先生と「中学卒業までに走り高跳びの記録を170cmまで伸ばそう!」と目標を決め、競技を始めました。
決めたらとことん熱中する性格なので、練習は真面目に取り組み、始めた頃は145cmだった記録も、目標通り、170cmまで伸ばしました。
紆余曲折な高校生時代
高校は陸上を本格的に取り組むため、家から最も近い体育会系の学校へ進学した。
ーー入学当初は混成競技を行おうとしていたそうですね。
濱田:走り高跳びが種目に含まれていることから入学当初は混成競技を行おうと考えていました。しかし、8種目をこなすための体力作りで400mを走ったところ、その速さが評価され、400mを始めることになりました。その流れで400m Hにも挑戦したら、「この種目ならトップを目指せるかもしれない!」と思い、400m Hを専門種目に選びました。
ーーその一方、高校1年生で留年をされたと聞きましたが…
濱田:競技の方は種目も決まり、毎日真剣に練習へ取り組んでいたのですが、勉強の方は思い通りにいきませんでしたね。(笑)練習もあるので、毎日学校には通っていましたが、陸上に没頭しすぎた結果、勉強は疎かになり、補講もサボってしまい、高校1年生で留年してしまいました。(笑)
濱田:学校を辞めてしまっては意味がないと自分なりに考えて、もう一度1年生からやり直すことを決めました。元々のポジティブな性格もあり、留年に負い目は全く感じず、むしろ、留年したおかげで全学年の生徒と仲良くなり、学校生活をとても楽しく送ることが出来ました!(笑)
インターハイ路線のチャンスは3回
インターハイは高校生の間3回しか出場できないため、2年目(2回目の1年生)は出場できず。。
しかし、練習や試合を重ね、着実に記録を伸ばしていった。
ーー見事2年生(3年目)ではインターハイ4位に入賞されていましたね。
濱田:2年生(3年目)では、前年に出場できなかった悔しさもあり、インターハイにかける思いは人一倍強くありました。大阪府、近畿大会、ともに順当に勝ち上がり、インターハイでは4位に入賞をすることが出来ました。3年生(4年目)でも自己記録を更新したものの、周りのレベルがかなり高く、結果は変わらずインターハイ4位でした。
<結果>
初めての記録(1年目):55.55
1年生(2年目):54.60(2年目)
2年生(3年目):51.97(3年目) インターハイ4位
3年生(4年目):51.16(4年目) インターハイ4位
ーー高校時代の練習についてお聞きしますが、どのような練習をされていましたか?
濱田:顧問の先生が混成競技の経験者だったこともあり、走るだけではなく、様々な角度から陸上競技を教えて頂きました。特に先生が混成種目の中でも跳躍種目が得意だったので、跳躍系のドリルを多く取り入れつつ、走り込みなどを行い、ハードな練習を行っていました。
ーーそこまで頑張れた理由やモチベーションは何でしたか?
濱田:当時、大阪府の400mHのレベルが高かったことが良い刺激となっていました。それに加えて、学校の校舎から「可愛い女の子が見ている!サボっているところを見られたら恥ずかしい!」と思いながら、常にかっこいい自分を保とうとしていたことも自然に頑張るモチベーションとなっていましたね。(笑)
彼のキャラクターを受け入れてくれた城西大学
ーー城西大学へと進学したとのことですが、決め手は何かありましたか?
濱田:いくつかの大学からお声はかかっていたものの、関東へ行きたいという気持ちもあり、色々進学について悩んでいました。そんな時、千葉先生(城西大学陸上競技部監督)から「君のキャラクターを受け入れてくれる学校は他にないよ、ぜひ城西大学に」という言葉を頂きました。その言葉をかけて頂いたことはもちろん、千葉先生が当時400mHで日本歴代8位の記録を持っていたことから、千葉先生の元で4年間頑張りたいと思い、城西大学への進学を決めました。
SNSとの出会い
濱田:自分が将来お金を稼ぐためには?という現実的なことをよく考えていました。
その中でお金がかからずに大学生でもできることは何かと考えた時に考えついたのが「SNS」でした。
ーーSNSはどのようにして始めましたか?
濱田:元々、目立つことや発信することが好きだったことに加え、取り組んでいる中で数字が上がることに対しての喜びを感じ、いつしかSNSに夢中になっていましたね。
また、どのようにすれば多くの方に視聴して頂けるのかなど、ファン作りも楽しかったです。
ーーしかし、両立に苦しんだとお聞きしましたが…
濱田:1.2年生共に練習は行っていたものの、陸上よりもSNSの楽しさに魅力を感じ、SNSに対する情熱が大きくなり、陸上が疎かになってしまいました。
3年生では心を入れ替え、陸上に打ち込む
濱田:SNSでの経験から、色々な世界を知ることが出来ました。その中で、「お金はいつでも稼ぐことができるが、陸上は今しかできない」と思うことができ、3年生からは競技を第一優先に、そして競技へ影響が及ばない程度にSNS活動を行うようになりました。
濱田:4年生では、400mHでベストが出た矢先、怪我をしてしまい、その後は思うような走りをすることが出来ませんでした。そこからは、次年度のパリオリンピックのこと、そして卒業後のことを考え色々行動していました。そのため、大学で陸上を辞める選択肢はありませんでした。
アメリカ留学
ーー今年の3月アメリカへ行かれていたと思うのですが、どのようなきっかけだったのでしょうか?
濱田:パリオリンピックや競技について考える中で、「日本だけの知識や指導で競技を終えたくない」という思いが強まり、「海外の指導を学びたい」との考えからアメリカへ留学することを決めました。
指導者はエージェントの方に頼み、日本人に指導経験があった方にお願いをしました。
ーーアメリカと日本はやはり違いましたか?
濱田:はい。もちろん食事は想像通り異なっていたのですが、練習も驚くようなことばかりでした。
ーーどのような練習だったのですか?
濱田:日本では、400m系の選手はある程度長い距離を走る練習を行うことが一般的だと思います。しかしアメリカでは、「スタートからしっかり組み立てられなければ、その後も速く走ることができない」という考え方から、練習も15〜35mの短い距離に絞られていました。このようなスピードを重視した練習が中心で、400mハードルも1台目までの練習しか行わず、ウエイトトレーニングにおいても走りに必要なものだけに限定されていました。
その結果、35mまでしか走っていなかったのにも関わらず、日本に帰ってきて250mを練習で走ったところ、昨年のベストタイムをシーズンが始まる前の3月の時点で超えることができました。短い距離でも効率の良い走り方、技術を身につければ長い距離も走れるようになることを身をもって感じることが出来ました。
ーー今でもアメリカで学んだ練習を行なっているのですか?
濱田:今現在は、2025世界陸上出場、2028年のロサンゼルスオリンピックに出場を目指し、アメリカで学んだ短い距離×千葉先生の長い距離を掛け合わせた練習を行うことで、どこまで記録を伸ばせるのかを考え、試しながら練習を行っています。
三足の草鞋を履きながら陸上選手
卒業後のことを考えすぎていた結果、足元をすくわれ、人生二度目の留年。現在も城西大学の学生でありながら、新たに会社を立ち上げ会社の社長として活動。また、チームの情熱に惹かれACCEL TRACK CLUBに加入し陸上選手。このように三足の草鞋を履きながらSNSの活動も盛んに行っている。
「30歳までに経常利益10億の会社」を目標に
濱田:仕事の目標は、時代と共に対応しながら、30歳までに経常利益10億の会社を作ることです。
元々誰かの下で働くことが性格に合わないと感じていたため、その道は全く考えていませんでした。また、様々な事業に挑戦していきたいと考えていたため、自分の会社を立ち上げました。
ーー活動は自分、そして将来の子供達のためとお聞きしましたが?
濱田:はい。SNSは、自分の将来や生活を送るためにはもちろん、今の自分の活動がこれから育ってくる子供・学生の一つの参考になるように「ありのまま」を載せて、「リアル」を感じてもらうことを意識しています。また、子供たちの夢がプロ陸上選手になって欲しいという思いもSNSを頑張る一つの理由です。
ーー全てをこなすのは大変ではないですか?
濱田:全てを両立することは、もちろん時には大変です。しかし、大学1.2年生での失敗経験があるからこそ、熱量の掛け方はもちろん、周りの方への頼り方がわかりました。成長しました。
ポジティブな性格、そして思いついたらすぐ取り組む行動力によって困難なことも乗り越え、ここまで辿り着いたのでしょう。
陸上はもちろん、仕事においても彼の可能性は無限大です。
今後、彼があらゆる世界で名を轟かせてくれるのでしょう。皆さん期待していて下さい。