中学1年生、友達に誘われて始まった井之上駿太の陸上人生。
走幅跳(中学1年生)から始まった競技も、100、200m(中学2.3年生)から200m、400m(高校生〜大学2年生)、そして400mHに辿り着いた紆余曲折の競技人生。
今では世界陸上の標準を突破し、400mH界で名を轟かせている彼も、怪我や不調に苦しみ陸上を辞めたい時期もあった。そんな彼がどうしてここまでの選手になったのか。取材させて頂きました。
陸上を始めたのは、友達の誘いから
井之上:
野球部に入部を迷っていたところ、友達に誘われ陸上部に入部することを決めました。実は、小学生の頃、走り幅跳びで市の大会を優勝していた経験があったので、入部当初は走り幅跳びを取り組みました。良い指導者に出会い、その先生の言葉を愚直に受け入れ、一生懸命練習を続けていく中で、種目を100m.200mに変更しても良い成績を残すことができました。
洛南高校進学
強くなるため、輝くためにはこの学校しかないと「洛南高校」へ。
環境がガラリと変わった1年生
井之上:
中学時代までは、自分が先頭に立ち、チームを引っ張りながら競技に取り組んでいました。しかし、高校に進学するとその環境が一変しました。1年生の頃は、先輩や同期の存在感に圧倒され、周りについていくことに必死で、とても刺激的な日々を過ごしていました。
実力をつけた2年生
井之上:
2年生になると、状況が大きく変わり、インターハイに個人種目で出場することができ、さらにリレー種目でも優勝を果たしました。自分が描いていた競技生活を実現しつつ、さらに大きな舞台での飛躍を期待できる自信も芽生えてきました。
また、同期には2年生ながらもインターハイで優勝している選手がいて、その存在は常に自分の目標となり、多くの刺激を与えてくれるかけがえのない存在でした。
高校で学んだ「答えと式」
井之上:
高校時代、顧問の先生から「答えを作ってから式を作る」、つまり「なりたい姿や目標から逆算をして、今自分がやるべきこと・必要なことを考える」という教えを常に言われていました。この教えは、今でも競技を行う上で大切にしています。また、高校3年間を通じて、陸上競技というものを教えて頂き、考え方や取り組み方といった多くのことを学び、競技者として大きく成長できたかけがえのない時間でした。
高校時代の練習
井之上:
シーズン中は、アップの後に1時間半の自由に練習する時間が設けられていました。同じ時間を与えられるも、各々の取り組みは異なるため、自由な発想が求められました。この練習方法に入学当初は、知識も経験も乏しく戸惑いを覚えましたが、先輩方に取り組み方や意識するところを聞きながら、背中を追うようにして、日々思索を重ね、取り組みました。
冬季の練習では、先生がその場その場でメニューを決めていたことで、次の練習のことを考えずに一つ一つの練習に全力を尽くすことができていました。
120mの距離しか走れず、練習環境は恵まれていたと言い難いですが、先生や周りの選手のおかげで、強度高く質の良い練習を行うことができていました。
3年目。主将抜擢したものの、インターハイ中止
井之上:
競技力では他の同期の選手に劣っていたため、競技面ではなく人間関係やチームビルディングを重視し、「インターハイで選手全員が輝き、総合優勝を果たす」という目標に向かい、主将としての役割を全うしていきました。
チーム全員でその目標に向かって努力を重ねていた矢先、コロナウイルスが流行し、目指していたインターハイは中止となってしまいました。代替試合においても、思ったように個人及びチームとして結果を残すことができず、不完全燃焼のまま終わってしまいました。
良い思い出もあれば、悔しい思いも多くあり、様々な経験をした高校3年間でした。この貴重な経験を活かし、大学においても競技を継続することを決意しました。
大学進学
チームを重んじる高校に通っていた彼が決めた大学は、自由で個人を重視する環境で競技を行える法政大学だった。
初めてのことだらけの大学1年生
井之上:
親元を離れての始めての寮生活は、新しい挑戦でした。
練習においても、高校時代の与えられた時間の中で各々考えて行うという練習方法から、与えられたメニューの中で取り組み方を考えるという方法に変わり、苦戦を強いられました。また、タイムも中学3年生の頃より悪いときもあり、陸上の魅力を失った時もありました。
そんな時、自己ベストが欲しいと思って始めたのが400mHでした。高校3年生に興味本意で出場した経験はあったものの、一度きりだったため、自己ベストに期待を寄せて始めてみました。400mHは新鮮で楽しく、気分転換しながら200mや400mでの記録向上に繋がることを目的とし、始めました。
なぜ1年生の頃、うまくいかなかったのか?
井之上:
今振り返ってみると、当時は自分にとって大切なものを見定める力がなかった上に、練習をやり切った充実感は得ていたものの、練習の強度が自分の実力に伴わず、効果的な練習ができていませんでした。
また、高校までは120mだった距離も何倍にも増え、取り組み方が分からなかったのも一理あると考えています。
2年生のシーズン。400mHは56秒台からスタート。
井之上:
結果も出せず、陸上を辞めるべきか悩んだ時期もありました。しかし、当時趣味だった読書をする中で本に背中を押され、覚悟を持って大学に入学したことを再認識し、自分が納得できるところまでやり切る決意をしました。
さらに、6月に怪我を経験したことが、自分の体と向き合い、体の使い方や陸上への考え方を見直す良い機会となりました。
井之上:
怪我から復帰した後、練習に参加すると、以前負けていた選手との距離が徐々に縮まり、少しずつ前へ進む感覚が戻ってきました。
その結果、7月末の記録会では、400mHで自己ベストを1秒更新し、大学に入学して以来、初めて自分の力で全国大会の切符を勝ち取り、全日本インカレに出場することが出来ました。結果は、予選落ちでしたが、その時の最大限の力を出し切り、自己ベストを出すことができました。そこから自分の中で400mHの選手としての覚悟が芽生えました。
今までのレースで一番驚いた「49.77」
井之上:
全日本インカレ後、迎えた新潟Yogibo Athletics Challenge Cupで49.77を出すことができました。7月に感覚を掴み、練習を順調に行えていたことに加え、全日本インカレからトータルの歩数を2歩減らし、逆足も1回になったことでロスが減り、タイムが出たと考えています。正直、ここまで結果が出ると思っておらず、このレースは今までの中で一番驚いたレースでした。
大学に来て2回目の冬季練習
井之上:
冬の練習は、前年の経験や反省を活かし、7月に掴んだ感覚をもとに練習へ取り組みました。また、余裕も生まれ考えながら取り組むこと、そして他の選手と競り合えるレベルに達し、日々良い練習を行えていました。
順調だと思っていたものの、怪我の多い3年目
井之上:
結果を出した後から良くも悪くも、走れてしまうからこそ体がついてこないという今までとは違った悩みが生まれてきました。その結果、冬に怪我をし、復帰戦として迎えたFISUワールドユニバーシティゲームズ(大学生を対象とした国際総合競技大会)の選考会である日本学生陸上競技個人選手権大会では、準決勝で敗退してしまいました。しかし、5.6月には調整が間に合い、運も重なり、日本選手権では4位になることができました。
ずっと憧れだった日本選手権の舞台。全日本インカレに出場することが精一杯だったレベルから、ステージが変わり、自分が戦う場所はここだということを認識し、レベルを上げられたと感じた瞬間でした。
しかし、その後も怪我に苦しみ、日本選手権以降はほとんど試合に出場できませんでした。怪我を機に、スピードに耐えられる体作りに専念し、感覚は変えず、力をコントロールし、9割5分で走り続けられるように練習を続けました。また、食事改善やトレーニングのリカバリーも勉強し、実践しながら改善していきました。
最終学年の4年生
井之上:
冬季練習は、足に不安があった中、ケアをしながら走っていましたが、初戦で想定よりも遅いタイムを記録し、冬の取り組みが間違っていたのかと不安を抱えたままシーズンが始まりました。
5月に行われた関東インカレまでのタイムでは、日本選手権の出場枠(日本ランキング24位)に入っておらず、残すところ1本のみという状況で、関東インカレの決勝を迎えました。
追い込まれてはいたものの、記録よりも勝つことにこだわろうと腹を括り、無欲無心でゴールまで走り抜けました。その結果、48.91という大ベストで優勝することができ、無事に日本選手権に出場する権利も得ることができました。結果や記録はもちろん、冬に取り組んだことは間違っていなかったと自信を得ることもできました。
二度目の日本選手権
井之上:
今年の日本選手権は、パリオリンピックの選考もかかっており、「オリンピックに出場したい」という冬からの目標があったのはもちろん、前年は運良く決勝まで駒を進めることができましたが、今年は自分自身のタイムやレベルが上がっている状況でのレースだったからこそ心持ちも違っていました。
結果はオリンピックへの出場を果たせませんでしたが、今年は運ではなく、タイム的にも日本の最高峰の舞台で他の選手と戦うことができたと思っています。
あの舞台で勝負をすることが自分にとって競技人生に良い影響を与えてくれる、日本選手権の決勝が一番ワクワクするレースだと彼は語る。
世界陸上標準突破の裏側
井之上:
日本選手権後、順調に怪我や不調もなく、練習も積むことができていましたが、全日本インカレの最後の追い込み練習の時に足を痛めてしまいました。
そのため、全日本インカレの時は、3日前に初めてハードルを跳ぶという不安の状態で試合に臨んでいました。
その状況でも予選は、ハードルや走りの感覚を確かめながら余裕を持って走ることができました。
そして迎えた準決勝。
井之上:
準決勝は、周りのレベルを見ても、攻めた走りをしなければ決勝に駒を進められないと思い、気を引き締めてレースに臨みました。自分の走りの感覚や後ろの選手の足音から考えて49.2ぐらいだと走りながら思っていましたが、結果は、48.46という自己ベスト、そして世界陸上の標準記録を突破することが出来ました。「48.50」という東京世界陸上の標準記録は頭にあり、今年中に突破しておきたい気持ちはあったものの、まさかここの舞台で突破できるとは思っていませんでした。実力だけではなく、周りの方々の応援などの様々な要因が重なって記録を出せたと思っています。今は、驚きが大きく、タイムが出てしまったという感覚です。
井之上:
決勝は、準決勝のタイムは考えないようにしていたつもりでしたが拭いきれず、また今までの追う側だった立場が追われる立場へと変わり、力が勝手に入ってしまい、2位という結果になってしまいました。
今後も競技継続
井之上:
大学3年生の頃、日本代表になれなかったら競技を引退しようと考えていました。そのため就職活動も行なっており、内定先も決まっていました。しかし、試合を重ねる中で日本代表に届く位置に自分がいることを実感し、競技を続けることを決意しました。
世界の舞台に立ってみないとわからない重圧を経験し、その舞台に興味、憧れ、好奇心をくすぐられるという。一回だけではなく、その舞台で戦い続けられるように、努力を続けていくと彼は笑顔で答えました。
今後の彼の活躍に期待
今では400mH界を牽引する彼も多くの困難や壁にぶつかってきました。それでも諦めず目標に向かい見えないところでもひたむきな努力を重ねてきました。
今回も世界陸上の標準記録を突破したからといって彼は決して奢ることなく、1週間後の試合に向けて黙々と練習へ組んでいました。
来年の東京世界陸上はもちろん、2028年に行われるロサンゼルスオリンピックに向けて、400mH、そして陸上界を引っ張っていく存在になっていく彼の活躍に期待です。