男子400mHといえば、今年行われたパリ五輪でも日本代表が複数選手出場し、今では日本の得意種目となっています。
そんな、400mHで過去に日本記録を樹立した苅部俊二さんは現在、陸上競技の名門・法政大学にて監督を務めるなど、後世の育成に励んでおられます。
ライターの私、熊谷遥未も法政大学出身で、現在も苅部さんにコーチをしていただいており、日本選手権決勝進出など好成績を後押ししていただきました。
今回はそのようなご縁から、苅部さんへ日本記録樹立の「裏」での独学トレーニングや、計り知れない努力と根性がどこから生まれていたのかついて。また、陸上競技との出会いからどのように練習へ取り組んでいたのか振り返っていただきました。
歴史研究部から陸上部への転部
苅部さんと陸上競技の出会いは中学生の時。
中学校では、元々歴史が好きだったため地理歴史研究部に仮入部したそうですが、飽き性な性格ゆえ、すぐに興味を失い、なんと2日で退部。
次の部活を探している時、幼少期より足が速かったことがきっかけとなり、陸上部への転部を決意したとのこと。
苅部:
父親から「せっかく陸上をやるなら箱根駅伝を目指したら?」と言われていたことで、陸上競技を始めた際は800mや1500mなどの中長距離を専門種目としていました。
高校に進学後も陸上競技部に所属しましたが、強豪校ではなかったため、強い選手が所属しているわけではありませんでした。
400m・400mHとの出会い
苅部さんは高校進学後も、800mと1500mに取り組んでいました。
そんな苅部さんは、ここからどのようにして日本代表の切符を手にする選手へと成長を遂げたのでしょうか。
苅部:
秋に人数合わせで4×400mRに出場することになったので事前に400mを走ってみたところ初めてにしてはまずまずの記録だったんです。そこで、いつも2周以上している種目に比べ400mは遥かに短く、楽に感じたと共に、リレー種目の楽しさを感じ、それ以降400mと800mに専念することにしました。
秋の神奈川県新人大会で5位に入るも、怪我で1ヶ月走れない期間の中で、先輩が関東大会に出場する姿を見て、悔しさと「もっと頑張ろう」という向上心が芽生えましたね。
その後、練習や試合を重ねるうちに次々にタイムが上がっていったときはとても嬉しかったです。
その後、400mの記録が向上したことで、他校の先生から400mHに挑戦するよう勧められたことで、苅部さんの400mHのストーリーが始まったのです。
高校陸上で好成績を残していた苅部さんでしたが、当時は大学4年間で陸上競技を終え、その後は一般企業に就職するつもりだったとのこと。
大学へのこだわりも特になく、同じ神奈川県の強い選手が法政大学に進学すると決めていたため、苅部さんも法政大学へ進学することに。
ユニバーシアード出場を機に変化した「意識」
苅部:
大学入学当初、400mや400mHの選手がいなかったため、800mの選手と一緒に練習をしていました。
大学の4年間は「諦めずにとりあえず頑張ろう!」という気持ちで、モチベーションはそこまで高くなかったので、まさかその後、日本代表になることなどは全く想像もしていなかったです。
苅部さんは、1年生で迎えた関東インカレでは400mで8位に入賞したものの、400mHでは入賞できず、「やはり自分には才能がない」と感じ、400mHから距離を置く時期を作ったそうです。
しかし、同年の国体に選出されるも、400mという種目がなかったことから、400mHに出場することに。
この国体での400mHへの出場が苅部さんの今後の意識を変化させます。
苅部:
嫌々ながら400mHに出場したところ、9台目まではトップだったが10台目でミスをしてしまい、2位に終わってしまいました。
1位の選手の「勝つのは計算通りだった」というインタビューを聞き、「自分がミスをすることは想定内だったのか?」と悔しい気持ちを覚え、来年は必ず勝つと決意しました。
その後、大学1年生の冬に再び400mHへ取り組み、練習に熱を入れ直しました。
その結果、苅部さんは大学2年生の関東インカレと全日本インカレでライバルに勝ち、優勝を果たしました。
さらに、ユニバーシアードの出場権も手に入れ、この頃から、競技に対しての「意識」が大きく変わったそうです。
「真似び(まねび)」で高めた競技力
苅部さんが大学生時代の法政大学にはコーチはいたものの、技術など細かい面まで教えてくれる指導者はいなかったため、自分たちで練習メニューを考えていたとのこと。
苅部:
自由であった反面、「どれだけ練習すれば良いのか」「やりすぎなのか?足りないのか?」などの基準が全く分からず、常に疑問を抱えながら練習を行っていましたね。
さらに私は、経済学部だったため、体育の知識も全くなかった。だからこそ、様々な練習会や合宿に参加し、多くの先生に質問し、他の選手の動きを観察するなどして、「まずは真似をしてみよう」という「真似び(まねび)」の精神で、周囲から多くの学び吸収していきました。
苅部さんが入学して2年後、斉藤嘉彦さん(現・東京農業大学第二高等学校教諭)が入学し、大学在学中はもちろん、多くの試合で1位・2位を独占したり、一緒にアジア大会に出場するなど、競技力の高いライバルの存在も苅部さんの競技力向上に大きな影響を与えました。
その後も、力のある「後輩」が続々と入学し、練習のレベルも以前と比べものにならないほど高くなり、「400m、400mHの法政大学」がやっとスタートしたのです。
「何をやるのか」ではなく「どうやるか」
苅部さんと言えば陸上会では「練習メニューの量が多い」と知られていますが、1600m+300m+600m+300mの練習をはじめ、様々なメニューを取り入れていたとのこと。
大学入学時の400m選手がいない時期には、800mの選手と16キロ走ることもあったそうです。
苅部:
週5回(火・水・木・土・日)の練習では、水曜と土曜に負荷をかけたメニューを設定し、練習に波を持たせていましたね。
「どんなメニューをするか」ではなく、「そのメニューをどのように取り組むか」が重要だと考え、ダラダラと練習をすることには意味がないという考えでした。
もちろん、他の人には中々真似することはできないかもしれないですが、自分の限界を超えるためにリミッターを外し、時には怪我を覚悟で取り組んでいました。
また、100%の力を出すことは難しいと理解していたため、全力や自分の最高閾値を少しでも100%に近づけるよう日々努めていましたね。
普段の練習から、メニューごとに意識するポイントを考え、自分の走りを理解しながら日々の練習を取り組んでいたということが、苅部さんの強さの秘訣だということです。
苅部:
冬季練習でも「質を下げずに量を増やすこと」を心がけたのですが、振り返るとやりすぎだったと感じています。
当時「客観的に意見をくれる人がいなかったことも原因かな」と今になって思います。
元々、物事を感覚的に捉える苅部さん。
自分で考えて取り組まなければならない環境があったからこそ、常に思考し、自分を見つめ理解することが習慣となり、ここまで競技に打ち込むことができたのでしょう。
他の人には真似できない「調整力」
苅部さんは、試合の1ヶ月前にはその試合でどれくらいのタイムで走れるかを自分で把握しており、ピーキング*を外すことがほぼなかったそうです。
多くの選手は良い時の感覚を忘れ、悪い時の感覚を覚えてしまいがちですが、苅部さんは悪い時に戻るのではなく「良い時に何をしていたか」を忘れないようにしていたとのこと。
そのため、いつでも自分の状態を振り返ることが出来るように、日々の練習日誌を欠かさず記録していたそうです。
*ピーキング:重要な試合に向けてコンディションを高めていきそのピークを合わせること
苅部:
調子が悪い時にどうすれば感覚が良くなるのか、「こうなったらこうすれば良い」といった対処法、いわば「武器」を持っていました。
それを見つけるまでには時間がかかったが、常に「考え、行動し、イメージと感覚をすり合わせる」ことを意識し、理想の走りに繋げていきました。
ルーティンも緊張もしない。全てを受け入れる
苅部:
多くの人は自分に期待し、120%の力を出そうとすることで緊張してしまいますが、普段の練習でやっていることをそのままやれば結果が出せると分かっていたため、気楽に試合に臨んでいました。
失敗してもそれも経験として受け入れ、レースの1本1本に「学び」があると考えていました。
苅部さんは、ルーティンについても、もしできなかった時に不安を感じるのを避けるため、特定のルーティンは作らず、海外遠征などでも与えられた状況を受け入れ、動じないよう心がけていたとのこと。
また、食事に関しても特に厳しく管理せず、食べたい時に好きなものを食べるスタイルにすることで、食事でストレスを感じないようにするのを心掛けていた。
これらが苅部さんの強さの礎となっています。
次回は、苅部さんの「社会人での陸上人生とその後、そして今の学生達に向けて」をお届けします。