【逆境こそ、加速の合図 】――九鬼巧が歩んだ競技人生

【逆境こそ、加速の合図 】――九鬼巧が歩んだ競技人生

2025.04.23
2025.04.23
インタビュー

陸上競技との出会い

陸上競技に出会ったのは、小学校4年生のとき。きっかけは兄の存在でした。

気づけば、「速く走る」という感覚に魅了され、走ることが日常になっていました。

試行錯誤の中学3年間

地元・和歌山県の中学校に進学。

1.2年生の頃は、周囲の成長の早い選手たちに追いつけず、悔しさばかりが募る日々でした。それでも2年生の冬、ようやく「走れる」感覚がつかめるようになり、陸上がさらに面白くなっていきました。

思い返せば、家族と陸上の話をよくするようになったのもこの頃。自分の走りの動画を何度も、擦り切れるほど見返し、課題を探しては試行錯誤を繰り返していました。とはいえ、練習環境は決して恵まれていたとは言えません。50mの直線が3レーンしかないグラウンド。顧問の先生も毎年変わり、中には陸上未経験の先生もいました。

だからこそ、自分で工夫する力が養われました。兄の練習を真似したり、陸上雑誌を読み込んでは実践してみたり——その積み重ねが実を結び、全国中学大会で8位入賞という結果に。視野が大きく広がる経験となりました。

自分の陸上人生を大きく変えた高校3年間

「もう一度全国で戦える選手になりたい」――そんな想いで、地元・和歌山北高校に進学。この高校3年間は自分の陸上人生を大きく変える時間になりました。

イメージすることの重要性

高校入学前、両親が“3年後にインターハイが開催される沖縄の競技場”に旅行を兼ねて連れて行ってくれました。100mのスタートラインに立ち、そこから見えたゴールの景色を前に、「ここで自分は活躍するんだ」と心に決めた瞬間のことは、今でも忘れられません。

新たな自分との出会い

高校1年生の秋に疲労骨折を経験。しかし、この怪我を機に先生が丁寧に補強やウエイトトレーニングを指導してくださり、体づくりに専念する時間が持てました。

さらに、叔母の知人を通じてパーソナルトレーニングを受ける機会にも恵まれ、「大きく走る、そして地面を押す」という感覚を体で覚えていく中で、どんどん走りが変わっていきました。

高校2年生になるとその成果が表れ、近畿大会で10秒34をマーク。そして、世界ユース出場、インターハイ優勝と、想像を超える結果が自信となって返ってきました。

その後はキャプテンとして、チームのインターハイ総合優勝に向けて日々奮闘。プレッシャーと向き合う日々でしたが、最終的に2年連続のインターハイ個人優勝、そしてチームとしても総合優勝を果たすことができました。

応援される選手に

高校時代、顧問の先生にかけてもらった「応援される選手になりなさい」という言葉があります。

その真意は明かされませんでしたが、私はずっと「応援される選手とはどのような選手なのか」を自問自答しながら競技に向き合ってきました。

この言葉は、今もなお自分の中で大切にしている言葉であり、理想です。

今の中高校生に伝えたいこと

①情報があふれる時代だからこそ

今の時代、SNSを開けば、誰でもすぐに情報を手に入れることができます。便利になった一方で、あまりにも多くの情報に触れすぎて、何が正しいのか、どれを信じればいいのか分からなくなることもあります。

だからこそ大切なのは、「信頼できる人」を見つけること。頼れる先生やコーチ、心から相談できる方々の存在が、競技を続けていくうえで大きな支えになります。

②陸上競技を好きでいてほしい

この言葉は、中高生だけでなく、大学生、そしてすべての競技者に届けたい思いです。

学生時代に花を咲かせ、競技生活を終えることも素晴らしいことですが、記録が伸びるタイミングは人それぞれで、誰にも予測できません。そして何より、陸上はアマチュア競技だからこそ、年齢や立場に関係なく、続けることができるスポーツでもあります。

「好き」という気持ちは、何よりも強い原動力になります。その想いに蓋をせず、自分のペースで、思う存分陸上競技を楽しんでほしいと思います。陸上競技は、きっとあなたの人生に、かけがえのない時間を与えてくれるはずです。

早稲田大学との出会い

当時活躍していた江里口さんや木村さんが早稲田大学に通っていたこと、そして礒先生と江里口さんが勧誘に来て下さった際に、礒先生が「世界で戦おう」と言って下さったことが、早稲田大学へ進学を決めた理由の一つとなりました。

大学1年生  “思うようにいかなかった”

大学1年生は苦しい1年間でした。入学前に東日本大震災が発生し、環境の変化で自分のリズムを掴めないまま時間が過ぎ、体調を崩すこともあり、思い描いていたシーズンを送ることができませんでした。

しかし、高校の頃からお世話になっていた1学年上のディーン元気さんと一緒に練習をさせて頂いたことが、大きな成長に繋がりました。

冬季練習の間、全体練習が終わった後、6時頃から8.9時まで一緒に練習を行なっていました。初めは半ば強引に付き合わされていましたが、徐々に上半身の体付きが変わり、走りの重心の高さや腕振りのタイミングが改善され、それを実際の走りにも体現できるようになりました。

最初は嫌々でしたが、今では自分にとって成長のきっかけを与えてくれたことにとても感謝をしています。

大学2年生 “悔しい経験から生まれた新たな目標”

冬季練習の成果もあり、春先から上手くシーズンをスタートできました。

アメリカ遠征に連れて行って頂き、日本選手権では予選で10秒23をマークし、五輪標準を見事突破。日本代表としてオリンピックに派遣して頂きました。しかし、本番では走ることが出来ず、悔しい思いをしました。それでも、次のオリンピック(リオデジャネイロ五輪)が社会人2年目の時に行われることが決まっていたので、そこを目指して頑張ろうと心に決めました。

大学3年生  “生涯ベストとなった10.19”

2年生のシーズンが終わり、先生とも個別でより多く話すことができ、キャッチボールが出来るようになりました。先輩方の背中を追い、次のステージに向けて練習や理想を組み立て、充実した冬季練習を送ることが出来ました。しかし、3月の鹿児島での合宿でオフの日に行ったフットサルで足を捻挫してしまい、走れない期間が続きました(皆さんも気をつけてくださいね)

関東インカレにはギリギリ間に合い8位に、日本選手権ではなんとか7位になりました。その頃、やっと冬季練習の成果が走りと噛み合い、全日本インカレでは準決勝で10秒19を出し、見事優勝することが出来ました。

大学4年生  “人間として成長した1年”

3年生の冬から主将を務めさせて頂きました。早稲田大学競走部100周年、そして100代目の主将として、連日ミーティングを行い、「組織とは何か」「競技だけではチームは成り立たない」ということを突きつけられ、部全体のことを考えながら練習に取り組む日々でした。

世界リレーの代表にも選出して頂けたものの、関東インカレと日程が被ったため、代表を辞退するなど、チームのために力を注ぐ日々でした。この期間は、人間として成長できたかけがえのない時間となり、周りの仲間や支えがあって乗り越えることが出来たと思います。

 

今の大学生アスリートに伝えたいこと

「大学生になったからこそ大学生をして欲しい」

この言葉は、「遊んで自由に過ごしてほしい」という意味ではありません。

大学に入学すると、練習の自由度が高まるかと思いますが、その中で自分自身とどう向き合い、どう練習を組み立てるのかが、これからの成長に大きく関わってきます。

特に、伝統ある強豪校出身の選手たちに多く見られるのが、これまでの“型”をそのまま続けてしまうことです。中学・高校ではアップや練習の流れが決まっており、それが体に染み付いています。だからこそ、大学に入っても同じように練習をこなし、高校時代に結果を出した方法に頼ってしまうことが多いのです。

しかし、それでは成長は止まってしまいます。

過去にとらわれず、「今、自分に何が必要か」「今、何をすべきか」そのように「今」と向き合うことが、大学で競技を続ける上で何よりも大切だと思います。

社会人としての挑戦と苦悩

3学年上の小林雄一さんが所属していたNTNから、陸上部員を増やしたいというお話を聞き、勧誘して頂き、競技を継続させて頂くことになりました。

最初の2年間は、オリンピックまで環境を変えたくないという思いを伝え、早稲田大学を拠点に品川のオフィスで毎日9:00-12:00まで働きながら競技を続けていました。しかし、日本代表にはなれず、思うような結果を残すことが出来ませんでした。

当時は競技を辞めるか悩んでいましたが、2021年に三重国体(結果的に、コロナウイルスの影響で中止)に向けて企業はスポーツ協会をバックアップすることが決まり、企業側から「環境が変わっても競技を続けてくれないか」というお話を頂き、三重県で競技を続けることを決意しました。

思わぬアクシデント

三重県での新たな挑戦が始まった矢先、予期せぬ悲劇が起こりました。

鍼治療中、臀部に刺していた鍼が体内で折れ、取り除く手術を余儀なくされました。手術は成功しましたが、左足の内転筋がうまく機能しなくなり、陸上どころか、リハビリだけの日々。心にぽっかり穴が開いたようでした。

「もう、世界を目指す競技人生は終わったのかもしれない。」そう思った瞬間も多々ありました。それでも、もう一度走りたいと思えたのは、支えてくれた企業や仲間、そして応援してくれる方々の声でした。

「自分のためではなく、誰かの背中を押すために走ることに意味がある。」と思い、競技への向き合い方を変え、再スタートを切りました。

その時に、「やってもあと3年。区切りの年である社会人10年目に、引退しよう。」と決め、その3年後が去年の2024年でした。

復帰後は思うように走れないこともありましたが、競技復帰には後悔はなく、充実した時間を送ることができました。

陸上競技に捧げた10年間。その先に見えたもの

社会人10年間で陸上競技を通して出会った方々との繋がりは、私の人生を豊かにしてくれました。会社の方々が応援してくれる環境の中で、学生時代にはなかった責任感や喜びを感じることができました。お金を払って競技をしていた頃から、お金をもらって競技をする立場になり、「誰かのために走る」という意識が、自分を支えてくれたのだと思います。

振り返ってみれば、順風満帆だったと思えるほど、幸せな陸上人生でした。

これからは、陸上競技というフィールドを使って、次のステージに挑戦していきたいと考えています。

一つは、地元・和歌山県から発信して、子どもたちの足を速くしたいです。スプリントの力は、陸上競技だけでなく、野球やサッカーといった他のスポーツにも活かせます。多様な競技の中から、未来のオリンピック選手を育てることが夢です。

そして、私自身も一線を退いただけで陸上競技を続けていきたいと思います。「私の走りを見たい」と言って下さっている方々に自分の走りをいつまでも届けたいです。

そんな素晴らしい陸上競技の世界を一緒に作って頂ける人が増えればいいなと思っています。

INTERVIEWEE

九鬼 巧

九鬼 巧

九鬼 巧(くき たくみ)
1992年5月18日
和歌山県立和歌山北高等学校を経て、早稲田大学に進学。そして、NTNへ。
和歌山北高校時代には、100mにおいてインターハイ2連覇。
大学生では、2年次にロンドンオリンピックの代表に選出されるも、本番では惜しくも走れず。
3年次には、生涯ベストとなる10.19をマーク。
その後、10年間社会人アスリートとして数々の試合に出場し、タイトルを取り、2024年に一線を退いた。

WRITER

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熊谷遥未

2001年11月16日東京都出身。田園調布学園を経て法政大学に進学。2023年の日本選手権では、女子400m決勝進出という実績を持つ。自己ベストは400m54.64(2024年8月現在)。現在は、青森県スポーツ協会所属の陸上選手として活動する傍ら、2024年9月より陸上メディア・リクゲキの編集長を務める。