走れる「だけ」で感謝。バセドウ病と向き合いながらトラック1周を駆ける社会人スプリンター

走れる「だけ」で感謝。バセドウ病と向き合いながらトラック1周を駆ける社会人スプリンター

2024.08.22
2024.08.28
インタビュー

2023年日本選手権女子400m決勝。
小雨が降る夜のトラックで、日本選手権初出場ながら堂々と中央4レーンを走るのが熊谷遥未さん(当時・法政大学所属)でした。
結果は、7位の選手からも大きく離されて8位。しかし、彼女の顔は笑顔でした。

後に「走れるだけで幸せなんです」という熊谷さんの陸上との出会い、そして難病との向き合いながら陸上競技を続けてきた学生時代を振り返っていただきました。

陸上競技との出会い

私と陸上との出会いは中学一年生のころ、田園調布学園(中高一貫校)に進学し、運動部に入りたいという漠然な思いと、小学生時代には運動会のクラス対抗リレー代表選手に選ばれるなど、走ることに自信があったことから陸上競技部に入部しました。。

田園調布学園は陸上競技に特化した学校ではないため、同期の部員は5名のみ。中学一年生の最初の大会では、100mで15.1と、同期の中でも3番目という平凡な記録で、毎日友達と一緒に部活へ行くことが楽しみな女子中学生でした。

しかし、1歳上の先輩が東京都の中学生陸上選抜メンバーに選出されたことを機に「私も選抜メンバーに入り、(選抜メンバーのみが得られる)Tシャツを着たい!」という目標ができたことから、みるみる記録が向上。世田谷区の大会でも優勝し、東京都大会でも入賞する選手へと成長できました。

念願の選抜メンバーにも選ばれ、強化合宿に参加しましたが、当然持ちタイムは全体でも下位であり、ドリルや動き作りが他のメンバーと比べぎこちなく、周りのメンバーから笑われ、気丈には振る舞っていたものの、内心は自分のできなさにとてもショックを受けました。

6レーンが熊谷さん

それでも、何か一つでも得て帰らないと!という思いから、積極的に強化コーチに質問をしたり、練習でも「足を回す感覚」が得られるようになりました。

中学三年生の終わりには全国大会の参加標準記録も突破しましたが、突破のタイミングが遅く、目標としていた全国大会への出場はおあずけで中学生陸上が終了しました。

1日にして陸上が奪われた 

全中に出場できなかったからこそ、高校ではインターハイに出場することを目標に高校生の陸上が始まりました。 

しかし、目標に向かって陸上漬けの日々を送っていた矢先、高校1年生の7月に甲状腺のバセドウ病という病気が見つかりました。
6月頃から階段を登るだけで息が切れ、休んでも疲れが取れず、体重も減り、手が震えるなど様々な自覚症状を覚え、色々な検査をしてこの病気に辿り着きました。幸いにも手術には至らなかったものの当面の運動禁止を言い渡されてしまいました。

「1ヶ月は運動だめ」
息が上がることがだめ」
階段もダメ」
「体育の授業も参加禁止」

前日まで当たり前のように走っていた生活から、普通の高校生が送る生活すら送れなくなってしまいました。

周りの活躍も素直に喜べない。

バセドウ病について

バセドウ病とは、甲状腺から分泌される甲状腺ホルモンが多くなりすぎてしまうことにより、体重減少や脈が速くなる頻脈など全身にさまざまな症状が現れる病気です。

出典:メディカルノート

「なんでこんな辛い思いをしなければならないんだろう」
「陸上競技をやめるべきなのかな」

そう落ち込み続けて、周りの活躍も素直に喜べない日々が続いていました。
そんなある日、別のスポーツで同じ病気を抱えながらも克服をし、オリンピックへ出場している選手をテレビで拝見しました。

私は一筋の光が差し込んだように、こんなところで落ち込んではいられない、まだまだ私の陸上人生は始まったばかりと少しずつ前を向くことが出来ました。

病院でも先生に「何ならやってもいいですか!?」と聞いてアドバイスをもらったり、家族にも沢山サポートをしてもらったおかげで無事に陸上競技に復帰することが出来ました。 

病気からも無事復活をし、練習も出来るようになり、景山咲穗選手(当時・市立船橋)や小林歩未選手、(当時・市立船橋)田路遙香選手(中大附)などの競合選手揃いの南関東地区で戦いを続けました。

しかし、集大成である高校3年生のインターハイ予選のレース中、肉離れをしてしまいました。一瞬にして高校生の陸上競技に終わりを告げられました。

一時は高校で陸上を終えようと考えたこともありましたが、当時の顧問の先生が「ここで終わって良いのか?悔しさが残って終わりよりやったほうがいいのでは?」と背中を押してくださったことから、大学でも陸上を継続することを決めました。

初めての環境での挑戦

大学に入学をし、1.2年生は環境に慣れること・練習についていくことが精一杯でした。

今思えば、ただ闇雲に練習をこなしているだけでした。このままでは中学高校の時と変わらないと思い大学2年生の冬から心改め努力をし直しました。

その努力の結果は3年生の関東インカレでやっと形となって現れてくれました。マイルリレーで初めて表彰台に登ることが出来、アンカーとしてチームを3位に押し上げた時、やっとチームに貢献出来た・努力が少しずつではあるが実を結んだと思えた瞬間でした。そこから日本選手権の標準も切り、初めて女子主将となって迎えた試合の日本選手権リレーでは初出場ながら4継は8位、マイルは2位とチームとしてもかなり強くなり1年前からは考えられない結果を出すことが出来ました。 

しかし、4年生に上がる前の3月に、3度手前の肉離れをしてしまい思いもよらぬラストシーズンを迎えてしまいました。このシーズンは厳しいのではと思いましたが、沢山の方のサポートのおかげで2ヶ月も早く競技に復帰することが出来、憧れであった日本選手権にも出場することが出来ました。日本選手権では、ランキングが24人中21番で出場することが目標だったので楽しんで走ろうと思ったらまさかの決勝進出で、決勝では完全に雰囲気に乗り込まれてしまいあっという間にレースが終わってしまいました。 

この時、400mを始めてやっと1年。

1年でここまで来られると自分でも思っておらず、まだまだ自分には可能性があるのではないかと思ったこと、そして走ることは自分にしか出来ない、なにより陸上競技が好きで1番輝ける場所だと思ったというのもあり、社会人になっても競技を継続することを決めました。

人より多く、故障や病気を経験してきたからこそ、当たり前が突然当たり前ではなくなり、健康でいられることは幸せなことだと気付くことができ、「日々悔いなく過ごそう」「毎日楽しかったと思える日を過ごす」ことを意識し、今年4月からは青森県スポーツ協会で競技を継続させていただいています。

中学生から大学生までサポートしてくださった皆様には本当に感謝しています。

編集後記

バセドウ病や肉離れなど数多くの人生のハードルに立ち向かっては、果敢に飛び越えてきた熊谷さん。
普通の人では経験し得ないことを経験してきたことから、強靭なハートを持っており、これからも陸上選手としての顔を持ちながらも「縁の下の力持ち」として活躍していきたいと、未来に胸を弾ませていました。
熊谷さんの社会人になったこれからの目標についても、後日記事として掲載しますので是非ご覧ください。

INTERVIEWEE

熊谷遥未

熊谷遥未

青森県スポーツ協会
熊谷遥未(くまがえはるみ)
2001年11月16日 東京都出身。
田園調布学園を経て法政大学に進学。
中学より陸上競技に取り組み、2023年の日本選手権では、女子400m決勝進出という実績を持つ。
自己ベストは100m12.11/200m24.44/400m54.64(2024年8月現在)

WRITER

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佐藤 玄主

1999年11月20日 兵庫県芦屋市出身。市尼崎高校出身。 毎年1月10日に兵庫県西宮神社で行われる「開門神事福男選び」において1番福を獲得。 現在は、一般社団法人おんげんの代表として、日本文化を活用したコンテンツ造成や企業プロモーションに傍ら、リクゲキの運営に取り組む。