走り幅跳びとの出会い
小学校3年生のとき、校庭で陸上教室が開かれており、なんとなく参加してみたのがきっかけでした。
もともと走ることが好きだったことから、自然と短距離に熱中するようになりましたが、小学6年生のときに走り幅跳びで県大会優勝、そして全国大会に出場したことで、走り幅跳びに興味を持つようになりました。
バレーを諦めて選んだ、陸上部の道
実は、バレーボール経験者だった父の影響で、中学ではバレー部に入るつもりでいました。ところが、進学した中学校にはバレー部がなく、迷った末に陸上部へ入部することにしました。
そこから本格的に陸上競技を取り組むようになり、中学1年でジュニアオリンピック優勝、2、3年では全国中学校大会、国体で入賞を重ねました。通っていた学校は、強豪校というわけでもなく、特別な設備や恵まれた環境があったわけでもありません。
一つひとつ基礎を大切に積み上げてきたことが、結果に繋がったのだと思います。
高校は全国トップレベルの仲間とともに
中学で出会った県内の強豪選手たちと、「一緒にこの高校で頑張ろう」と語り合いながら、東海大翔洋高校へ進学しました。
1年生ながらインターハイで入賞し、少年Bのカテゴリーで国体優勝。
2年生ではインターハイ優勝、更にアジアユース五輪2位、世界ユース五輪でも準優勝。世界の舞台に立つことができ、貴重な経験をすることができました。
3年生ではインターハイ2位という悔しい結果でしたが、3年連続で全国入賞できたことは、自分の中で大きな自信になりました。
苦しさを乗り越えた「意味を考える力」
振り返ると、高校時代まで大きな挫折というものはなかったかもしれません。強いて言えば、3年生の国体1週間前に肉離れをして、思うような跳躍を出来なかったことぐらいです。
私は、どんな時でも「どうしたら前を向けるか」「どうしたら楽しめるか」を常に考えるようにしていました。顧問の先生がつくる練習メニューも厳しいものでしたが、手を抜かない・文句を言わない・弱音を吐かないように常に意識し、先生を信じ、日々仲間と切磋琢磨しながら努力を重ねていました。
また、「なぜこの練習をするのか」と意図を考えながら取り組んでいくうちに、どんどん陸上競技が楽しいものへと変わっていきました。
大学での迷いと、自分を知るための1年間
高校の付属であることはもちろん、日本でもトップレベルの跳躍チームに惹かれ、東海大学に進学しました。
しかし、1年目は環境の変化に戸惑い、自分を見失ってしまい、全く結果を残せませんでした。
振り返ってみれば、自分で練習を組み立てるスタイルにうまく対応できず、考える力が足りなかったと感じています。しかし、その経験があったからこそ、2年目に向けて見直すことができました。
考えた先に見えた成長と、仲間への意識
2年目からは関東インカレ、全日本インカレで入賞するなど、少しずつ結果を残せるようになり、高校2年生振りの自己ベストも更新出来ました。
高校の頃に意識しなくてもできていたことを言語化し、意味を考えながら練習を組み立て、取り組むことができるようになったことで、ステージやレベルが上がったように感じました。
3年目にはチームの主力選手として、仲間や周囲との関わり方を強く意識するようになりました。時にはプレッシャーを感じることもありましたが、それ以上に「試されている、期待されている」ことが楽しく、ワクワクしていました。
4年目には、副主将として400人を超える部員をまとめ、跳躍ブロックのチーフも任されました。他のブロックとどう一緒に盛り上げていけるかを考え、「自分が結果を出して魅せる」「チームの一体感で組織力を上げる」ということを意識しながら練習、そして試合に臨んでいました。
結果として、タイトルを取ることはできませんでしたが、インカレでは決勝に進出するなど安定して結果を残せるようになりました。何より、ライバルがいたことがいいモチベーションに繋がっていたと思います。
「教える」ということの魅力
4年生になり、自分だけでなくチーム全体の練習メニューを考えるようになり、「教える」ということに強く惹かれていきました。次第に「もっと深く指導について学びたい」と思うようになり、大学院への進学を決めました。
陸上競技も辞めるつもりはなく、勉強しつつ、大学近くの高校の非常勤講師をしながら競技を行っていました。自己ベストも着実に更新しつつ、大学院で勉強したことを活かしながら楽しく競技を行っていました。
大学院卒業後も競技を継続したいと考えていたところ、大学生の頃お世話になっていた方のご縁があり、作新学院大学の跳躍コーチを任せて頂くことになりました。当時は、学生に指導をしつつ、時には一緒に練習をしていました。
また、栃木県の滝沢ハムに所属しながら競技継続をさせて頂くことになりました。
挫折から這い上がり、掴んだ「有終の美」
大学時に負った捻挫が、社会人になっても影響し、中々結果を残せない時期が続きました。1年目は思うようにいかず、悩みましたが、2年目は試合に出ることをやめて、1年かけて基礎づくりに集中するという大きな決断をしました。
試合に出られない期間は、モチベーションを保つことが何よりも大切でした。目標を紙に書いて毎日目にする場所に貼ったり、「なぜ競技を続けるのか」「何のためにこの練習をしているのか」と自分自身に問い続けたり。そんなふうにして、心が折れないように工夫を重ねていました。
振り返ってみると、1年という時間は意外とあっという間で、最初の年はまさに“リハビリの期間”のような感覚でした。試合に出場するための資格を得ること、そしてどこまで記録を伸ばせるか——自分自身との戦いの中で、競技に向き合い続けていました。
初めは、中々結果を残せませんでしたが、翌年から調子を取り戻し、栃木県選手権、関東選手権などコンスタントに優勝や入賞を果たし、記録もベスト近くまで残すことができました。
また、最後と決めた年には、関東選手権連覇、東日本実業団優勝、全日本実業団2年連続入賞という良い結果、そして納得した結果を残すことができました。
最後の試合としていた栃木国体では、決勝に残れずお世話になってきた栃木県に結果で貢献することはできませんでしたが、悔いはありません。あれだけの多くの方々が応援に来て下さり、会社も盛大に盛り上げて下さり、とても楽しく試合、そして陸上競技を終えられたと思います。
振り返れば、引退シーズンは自分が一番やりたかったことをコントロールしながらパフォーマンスに繋げることができ、それが結果にも表れる形となりました。
これから――「心と体を整えるメンテナンス事業」第二の人生
現在は20年間の現役生活の中で得た経験や知識を活かし、静岡県にて新たなスタートを切りました。幼なじみが代表を務める会社、資格者有する整体サロン「FOCUS」で、人事,総務部長、そしてスポーツ事業部長を務めています。
スポーツ事業の中で、学生から社会人まで幅広いアスリート達に対してコーチングや身体のコンディショニングを行なっており、整体×コーチングを融合させた全国でも例を見ないスタイルで事業を拡大しているところです。
心と体の両方に寄り添い、試合にも帯同しながら選手たちがパフォーマンスを最大限引き出すためのサポートをしていきたいと思っております。
2024年には実業団チーム”FOCUS陸上競技部”も新たに立ち上げました。
仕事をしながら競技も両立したいと考える『アスリート社員』も在籍しており、現在募集もしています。まずは静岡県で1番活気のあるチームにしていきますので、ご興味を待っていただけると嬉しいです。
最後に伝えたいこと
「なぜこの練習をするのか」「なぜ今のは上手くいったのか」「なぜこの目標を掲げたのか」。このようにたくさんの「なぜ」を問い続けてください。それが自分を奮い立たせる1番の原動力になります。
そのようにして競技生活を一生懸命にやり抜いた日々は様々な形となって競技を離れた未来へも活かされ続けます。自分と真正面から向き合い、何事にも挑戦し続け、たくさんの失敗と成功を積み重ねていくことが、その先の本当の勝利を掴めると私は心から信じています。皆さんのこれからのご活躍を応援しています。