走り続けた、その先へ――挫折と挑戦を越えて拓いた新たな道

走り続けた、その先へ――挫折と挑戦を越えて拓いた新たな道

2025.06.26
2025.06.26
インタビュー

陸上競技との出会い 「速くなりたい」一心で走った日々

小学生の頃はテニス部に入部しようと思っていました。しかし、市の陸上大会に出場したことをきっかけに、陸上部の顧問の先生と出会い、兄が陸上競技をしていたこともあり、中学では、陸上競技の道へ進みました。

当時の私は、とにかく“陸上競技”しか見えていませんでした。同じ県には、2年生ながら全国中学校大会で優勝するような強いライバルの存在があり、負けず嫌いな私は毎日ひたすら走り込みを行なっていました。「勝ちたい。誰よりも速くなりたい。」その一心で、努力を重ねた結果、まさかの中学日本新記録という結果を残すことが出来ました。まるで夢のような瞬間でしたが、日本一になれたという事実は、何よりも嬉しいものでした。

高校時代 挑戦と挫折、そして成長

進学をしたのは、千葉県最強といわれた船橋市立船橋高等学校でした。

「身体は短距離向きではない」「全中優勝で終わりだ」と周囲にささやかれ、悔しさを抱えながらのスタートでした。「見返してやる」「もう一度日本一を目指す」という強い思いが、高校生活を支える原動力となりました。

1年生ではアジアユースで優勝し、インターハイでも好成績。順調に思えた矢先、国体で肉離れを負い、シーズンはあっけなく終了しました。

2年生ではインターハイ5位。続く、ユース五輪では2位。結果に対しての悔しさはありましたが、地元開催の国体に向けて調子を上げることができていました。しかし、迎えた国体では大勢の応援に囲まれながらもプレッシャーに押し潰され、準決勝敗退。「これが本当の勝負の世界なんだ」と痛感した瞬間でした。

高校最後の冬季練習では恩師とより多くのコミュニケーションを重ね、常に課題を考えながら練習に打ち込むことができました。 

高校ラストシーズン開幕 忘れられない夏

3年生に上がる前の春、東日本大震災が発生しました。混乱の中でも多くの人に支えられ、無事に最後のシーズンを迎えることができました。インターハイでは100mで優勝、そして学校としても総合2位、トラック優勝を達成。リレーは惜しくも2位でしたが、仲間たちと過ごしたあの夏は、今でも心に強く残っています。主将だった仲間は自身が走れない中、自費で千葉から岩手まで駆けつけてくれました。その姿に背中を押され、「彼のためにも勝ちたい」と、チーム一丸となって掴んだ結果でした。

高校3年間は、日々のすべてが競技に直結しているという意識で過ごしていました。姿勢、ケア、食事、睡眠。すべてが「勝つため」の行動でした。その上、周りを見渡せばスポーツに真剣に向き合う仲間たちがいたことも、私を大きく成長させてくれた要因でした。

また、顧問の先生から「応援される選手になりなさい」と教えられたことは、今でも私の軸になっています。技術だけでなく、人間性もなければ人の心は動かせない——その言葉を胸に、競技に向き合ってきました。

中高生へ伝えたい思い

今は昔よりも多くの場所や手段で色々な情報が手に入ります。陸上競技には正解はありませんが、多くのものに手を出してしまうと自分を見失ってしまいます。良し悪しを自分で見分けられる選手に、そして当たり前を当たり前にできるそんな中高生になって欲しいなと思います。

進学したのは創部まもない大東文化大学

大学は創部間もない大東文化大学に進学しました。高校時代からジュニア強化でお世話になっていた先生がコーチをされていたこと、そして「自分の力でチームを1部に引き上げたい」という気持ちが決め手でした。

大学時代の低迷と再起

1年目は順調で、日本の大きな試合に出場する中で、自分が戦うステージが上がっていく実感がありました。しかし、アジアジュニア大会で決勝に進出するも肉離れを負い、その後に控えていた世界ジュニアも辞退せざるを得なくなってしまいました。そこからは怪我の連続。結果が出ない焦りや不安が積み重なり、心も身体も疲弊していきました。復帰戦では中学2年生以来一度も負けたことがなかった同学年に敗れ、胸に穴が空いたような虚無感に襲われました。

「怪我が治ってもまた怪我をする」——そんな繰り返しに心が折れそうになり、練習に出ても気持ちがついていかない。やる気も湧かず、逃げ出したくなる日々が続きました。今振り返れば、速さに甘えて天狗になり、不貞腐れて、逃げようとしていたと思います。

大学2年生の途中、「もう続ける意味がない」と監督や両親に引退を相談したこともありました。しかし、「辞めたら自分には何が残るのか」という問いが私を踏みとどまらせてくれました。

主将としての決意ーー再起への歩み

気がつけば先輩方は引退し、自分達が最高学年になっていました。そんな中で主将を任され、このままでは主将として情けない、もう一度頑張りたいという思いが芽生え、「もう一度指導をお願いします」と監督に頭を下げに行きました。見捨てずに支えてくださった監督、仲間、後輩たちのためにも、結果で恩返ししたい。その一心で再出発しました。

覚悟が芽生えたことで練習の質も高まり、徐々に全国の舞台で戦える力を取り戻していきました。全日本インカレでは怪我をしてしまい思うような結果を残せませんでしたが、セカンドベストのタイムを記録でき、結果としては良いシーズンを送れたと思っています。

 

社会人としての挑戦

三重国体に向けてNTNが陸上部を強化していたタイミングもあり、実業団での競技継続という貴重な機会をいただきました。「このままでは終われない」「自分の可能性を信じたい」という思いもあり、社会人でも競技を続けることを決めました。

朝の8時から15時半まで働き、その後チームメイトと練習。同じ環境で一緒に頑張る仲間の存在は心強かったです。

練習では、「主観と客観のすり合わせ」を大切にしていました。自分では良い感覚でも、タイムや動画、周囲の意見では違うことが多く、修正を重ねる日々。会社のサポートで母校の練習へ参加し、高校の顧問の先生に動きを見てもらい教えを受けては三重に戻って実践する。その繰り返しでした。

 怪我との闘い。支えへの感謝

社会人としての5年半は、振り返れば怪我との闘いでした。それでも陸上が嫌いになったわけではありません。むしろ、結果を残せなければ、実業団の名を背負う資格はないという信念のもと、自分を納得させるために引退を決意しました。

大学時代の自分は、社会人で競技を続けられるとは到底思えないような状態でした。しかし、そんな自分を支えてくださった会社、仲間、家族。多くの人の想いに支えられたからこそ、ここまで競技を続けることができました。

実業団選手として走る以上、「どう会社に貢献できるか」常に自分に問い続けてきました。良い環境でサポートを受け、時には職場に迷惑をかけながらも、結果を出すことを目標に必死に取り組んできた時間はかけがえのないものになりました。

結果的に、過去の自分を超えることはできず、悔しい思いをしました。しかし、最後の1年間は「悔いなくやり切る」と決めて走り抜きました。引退レースを終えたとき、不思議と心は晴れており、やり切ったという実感が、静かに胸に残りました。

5年半という時間の中で、たくさんの人の支えと、自分の可能性を信じて挑み続けた日々は、人生の宝物です。本当に幸せな競技人生でした。

陸上指導という新たなステージへ 走る楽しさを伝えたい

大学入学当初は高校の教員を目指し、教員免許も取得しましたが、考えを深めるうちに「陸上競技を教えたい」という気持ちへと変わっていきました。

現在は、高校時代からの知人が立ち上げた社団法人で、多くの子どもたちに走ることの楽しさを伝える仕事をしています。「走るのが苦手」と言っていた子どもが、「走るのが好きになった」と笑ってくれる瞬間が、今の私にとって最大のやりがいです。

また、スクールやパーソナルレッスンでも指導を行い、これまでの競技経験で得た知識や学びを次の世代へつなげる活動を続けています。子どもたちの未来に寄り添いながら、走ることの楽しさを広めていくことが、これからの目標です。

INTERVIEWEE

梨本真輝

梨本真輝

梨本真輝(なしもと まさき)
千葉県出身
千葉県流山南部中学出身。在学中には、当時の100m中学日本記録を樹立。
市立船橋高校時代はインターハイ100m優勝。
大東文化大学へ進学し、その後5年間NTN所属。

WRITER

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熊谷遥未

2001年11月16日東京都出身。田園調布学園を経て法政大学に進学。2023年の日本選手権では、女子400m決勝進出という実績を持つ。自己ベストは400m54.64(2024年8月現在)。現在は、青森県スポーツ協会所属の陸上選手として活動する傍ら、2024年9月より陸上メディア・リクゲキの編集長を務める。