小学生の頃、学校代表として出場した市の陸上大会。足は速かったものの、100mの枠には入れず、枠が空いていたハードルを任されました。
しかし体育の授業で転んだ記憶がトラウマとなり、恐怖心を抱えたまま、嫌々ながら走っていました。

学校の出会いから芽生えた”頑張りたい”という思い
中学に入ると、友達に誘われて陸上部へ入部。
入部早々、県1位の先輩たちや全国2位の同級生たちを目の当たりにし、「自分はこの環境でやっていけるのだろうか」と不安でいっぱいでした。
それでも、先輩たちが全中5位に入賞する姿を見た瞬間、「来年は自分も」と心の奥で火がつきました。
グラウンドは土、練習環境も決して整ってはいませんでしたが、がむしゃらにサーキットや基礎練習を重ね、少しずつ力をつけていきました。

悔しさが原点となった日々
2年生になり、本格的に取り組んだハードルとリレー。
リレーは通信大会で優勝するも、県総体では2位。あと一歩のところで全中を逃した悔しさは今でも忘れられません。「チームの足を引っ張ってしまった自分が情けない」──あの悔しさが、私の原点になりました。
中学最後の年では、ハードルは標準記録まで0.14。リレーも県で3位。全中出場を逃し、夢は叶いませんでした。
それでも私は諦めきれず、「高校で必ずリベンジする」と心に誓いました。

憧れの舞台を目指して
見学で訪れた花咲徳栄高校の明るい雰囲気に惹かれ、「ここで強くなりたい」と進学を決意しました。
高校では、「中学で叶えられなかった全国の舞台へ」という想いを胸に、100mHで13秒台、インターハイ出場を目標に掲げました。
努力の先に訪れた試練
慣れない環境、ハードル規格の変更──それでも努力を重ね、1年生で県3位まで順位を上げたとき、「このままいけるだろう」と正直思っていました。

しかし、2年時にはコロナ禍。練習も大会も失われ、先輩たちとインターハイ出場という夢を叶えることも出来ず。
悔しさがある中でも決して私は諦めず、一人でひたすら練習を重ねていました。
1年生のときに一度挑戦した400mハードルを本格的に始めたのも、この時期でした。
コロナ明け初の大会――久しぶりのレースでいきなり62秒台をマークし、全国大会標準を突破。喜びで胸がいっぱいになったのも束の間、ハードルの置き間違えにより記録は「なし」。
それでも気持ちは折れず、「ここからだ」と奮い立った矢先、疲労骨折に見舞われ、全国の舞台は再び遠のいてしまいました。走れない日々が続く中で、悔しさと無力さだけが胸に残りました。
そして迎えた最終学年
「最後の挑戦」を誓い、100mH、400mH、4×100mR、4×400mRの4種目全てでインターハイ出場を掲げていました。怪我を抱えながらも、順当に勝ち上がり、全4種目で順当に北関東大会へ出場を決めました。

インターハイ出場を目指し、北関東大会を目前に控えたある日の朝練。練習をしていたら突然、膝に「ズレる感覚」。よく分からず病院に行き、検査をすると、前十字靭帯断裂と診断。大会まで多くの方が支えて下さり、直前まで全力を尽くしましたが、北関東大会への出場は叶いませんでした。
走れず悔しい思いをしている中、チームが4×400mRでインターハイ出場を決めてくれた瞬間、悔しさ、嬉しさ、情けなさ──全ての感情が一度に押し寄せてきました。
現実を受け入れるのには時間がかかり、前を向けない日々もありました。それでも心に残ったのは、
「このままでは終われない」
という思い。
もう一度走るために、インターハイ出場の夢は後輩に託し、手術とリハビリをする選択をしました。
再出発。もう一度走るために
「強豪校でなくていい、自分のペースで、もう一度強くなりたい」そんな思いで、尚美学園大学へ進学。4年間で自己ベストを出し、全日本インカレに出場することを目標としていました。

初めて叶った、全国の舞台
1年目、持ち記録があったため、400mHで関東インカレへ出場。まさかのいきなり、自己ベストを更新。U20の全国大会への出場を逃したことに対して「悔しい」と思える自分がとにかく嬉しかったのを覚えています。
そして、ある日目覚めたら、全日本インカレの標準記録が下がり、全日本インカレ出場が決定。4年間の夢が1年目で叶いました。初の全国大会は、周りの選手の強さを目の当たりにしたものの、とてもいい経験になりました。

新しい練習のスタイルと成長
高校時代はほぼ毎日、練習をしていたため、尚美学園大学に入って週4日の練習になったときは、「こんなに少なくて大丈夫なのか」と不安でいっぱいでした。
それでも、「もし合わなければ2年目で変えればいい。まずは先生の言葉を信じてやってみよう」と気持ちを切り替え、目の前の練習にとにかく集中。
結果的に、練習日数が減ったことで怪我をすることもなく、常に高い質を保ちながら取り組むことができ、自分にはこのスタイルが合っていたのだと実感しています。
あと一歩届かなかった日本選手権標準
2年生では静岡国際で59秒08。あと0.08で日本選手権標準という大ベストを出すことができました。
しかし、その後の大会ではハードル手前で止まってしまうことや、中々思うように走れず自信を失うことも多々ありました。結果的に、届きそうだった日本選手権の標準も切れず、勝ちたい時に勝てない、9位の試合も多くあり、悔しさが残るシーズンとなってしまいました。

苦しい1年間。主将としての苦悩と葛藤
3年目は結果が出ず、ハードルが怖くなる日々。
日本選手権出場、関東インカレで表彰台、全日本インカレで決勝進出を目標に掲げていましたが、どれも達成できず、悔しい1年に。タイムのアベレージも低く、試合の直前に400mHをやりたくないと思うことも多々ありました。

また、部のルールで3年生が幹部を務める中、主将を任され、“結果を残したい・残さなければならない・部を引っ張らなければならない”という中で、気持ちも乗らずに思うように頑張れない日々。とにかく辛い1年間でした。
最後のシーズン、頂点へ
迎えた学生最後の冬。とにかく悔いがないように日々全力で取り組みました。
午前と午後に分けて2部練習を行なったり、時には男子長距離と一緒に走る日々。
その中でも、「やるときはやる。休むときは休む。」ということをとにかく大切にしていました。

そして迎えた4年生シーズン。冬の練習も今までで1番内容にも手応えがあり、自信を持ってシーズンを迎えられました。
学生個人で全国大会で初の決勝進出、静岡国際で念願の58秒台。
関東インカレでは、涙をこらえながら挑んだ決勝で、まさかの優勝。そして、記録も57.10の大ベスト。
「気づいたら一番前にいた」──夢のような瞬間でした。
その後岡山での全日本インカレでは、2位。「優勝が見えていた」からこその悔しさと、ここまで来られた喜びが交錯しました。
夢の舞台、そして新たな決意
そして迎えた日本選手権。決勝に行けたらいいなという思いの一方で、どこか心の中では「今シーズンの記録なら、もしかしたら3位に入れるかも」という淡い期待も抱いていました。

しかし、蓋を開けてみれば結果はギリギリの8位通過。それでも決勝の舞台に立てることが純粋に嬉しく、レース前は「この舞台を楽しもう」と心から思っていました。
けれど、いざ走り終えてみると、結果は8位。周りの速さ、そして強さを見せつけられ、悔しさで胸がいっぱいになりました。
努力で夢を叶える力を信じて

私は、エリートではありません。しかし、努力で夢を叶えることができました。
何度も転び、何度も壁にぶつかり、それでも走り続けてきました。
陸上が好き。練習が好き。仲間と苦しい練習を乗り越える時間が何よりも好きです。
これからもこの想いを胸に、私は走り続けます。私の姿が、誰かの希望になれると嬉しいです。
