棒高跳びを通して「喜びの共鳴」を生み出すアスリート若園茜の今、そして思い描く未来

2022年3月。春のシーズンの幕開けとともに、アスリートたちが冬季練習の成果を遺憾無く発揮する中、シーズン一発目の試合からアキレス腱断裂という最悪のスタートをきった選手がいた。医師には1年はかかると言われた彼女だが、半年後には、跳躍練習に励み、復帰戦を迎えた。

そのような常識では考えられないほどの復活劇を果たしたのは若園茜選手。2019年の全日本インカレ女子棒高跳びのチャンピオンだ。名門筑波大学で女子主将を務めた彼女。復活劇を支えたのは、数多くの素晴らしい出会いと、常人では考えられないほどの強靭なメンタルだ。そのメンタルを育んだ学生時代のエピソードや、多くの人が挫折してしまいそうな状況の中で、決して諦めなかった彼女の復活までのストーリーは、多くの人の勇気と希望になるだろう。


早朝5時から自主練習をしていた中学時代

クラシックバレエに取り組んでいた少女時代

■文化系少女と陸上競技の出会い

若園:こんにちは。岐阜県で保健体育の高校教員をしながら、棒高跳の選手をさせていただいております若園茜です。よろしくお願いします。保健体育の教員をしているので、スポーツは何でもできると思われがちですが、小学校までは文化系でクラシックバレエや日本舞踊、生花などをしていました。クラシックバレエでの過度な食事制限から体はカリカリでした。習い事とは対照的なおてんば娘で外で遊ぶのを生きがいにしており、誰よりも負けず嫌いで誰よりも泣き虫な子どもでした。小学生の時に学校代表として市内の陸上競技会に出場させていただいた時には、100mとソフトボール投げで優勝しました。陸上クラブ所属の選手がいたりする中で、どう見ても細くて弱そうな小学生が優勝したのを見逃さなかった、当時陸上部顧問のKTD先生が声をかけてくださり、陸上の道へ進むことになりました。

悔しくて泣くことも少なくなかった中学時代

■母と取り組んだ早朝5時からの自主練習

若園:中学に入ってクラシックバレエをそのまま継続するか、部活動を一生懸命やるかの2択で迷い陸上競技を選びました。陸上競技を始めてからは主に100mハードルに取り組みました。どんどん記録が伸びて、楽しくて仕方なかったです。そして、中学1年生の時にジュニア五輪に出場が決まり、初めての全国大会に臨むことになりました。結果は2位でした。中学校から陸上競技を始め、とんとん拍子で全国大会に出場したにもかかわらず、全国2位と言う結果に図々しくも、とても悔しがっていました。多分の負けず嫌いとその悔しさから、とにかくガムシャラに練習しましたね。いつしか自宅近くのグラウンドで早朝5時から自主練習をするようになりました。今思うと、無駄に思えるような練習(短距離なのに毎朝1000mを3本とか、5000mジョグとか)も沢山していましたが、全てが今に繋がっていると思います。もちろん朝練に行きたくない時もあり、そんな時、母は「とりあえず行け」と家から引きずり出してくれました。朝5時から自主練習、帰ってすぐ準備して7時から部活の朝練習、放課後部活ととてもハードでしたね。でも負けたくなくて、やりたくて続けていたので、それが今につながるマインドが鍛えられたと思っています。顧問の先生も熱心に練習を見に来てくださって、本当に感謝しています。


屈辱の敗北から這い上がった高校時代

4位となり涙した国体

■日本一になるために入学した高校で味わった屈辱

若園:中学時代にはジュニア五輪で入賞したものの頂点には立てなかった思いから、県内屈指の強豪校でもあった県立岐阜商業高校に入学し、日本一を目指しました。しかし、一年生の国体選考で、中学生に敗れ県代表を逃してしました。強いプレッシャーと負けたショックからゴール直後は意識を失い医務室に運ばれました。本気で陸上を辞めようとさえ思いました。国体は地元岐阜での開催だったため、補助員として参加しなければいけませんでした。悔しすぎて国体の記憶は都度都度抹消しようとしている中、ボーッと眺めていた棒高跳が私の競技人生を変えました。選手の試技を見て競技場の誰よりも高いところを棒1本でクリアし人々を魅了する迫力と美しさに私も魅了されました。何でもオンリーワンよりナンバーワンと仕込まれてきた私は「棒高跳で日本一を目指そう!」と気持ちを切り替えました。

ついに全国の頂点に立った日本ジュニア選手権にて

■種目転向、そして、ついに掴んだ高校日本一

若園:岐阜国体終了の翌日、勢い良く体育教官室に行き「棒高跳がやりたいです!」と先生に言いにいきました。特に深いことも聞かれず「おぉ!日本一獲るぞ!」と言ってくださったのを今でも覚えています。棒高跳に転向してからも、ハードルは並行して続け、翌年の東京国体とU18日本選手権は、100mハードルと棒高跳で出場できました。入学当初から強く思っていた日本一は、高校3年生のU20日本選手権で達成することが出来ました。初めて立つ日本一の表彰台から見えたのは、涙を浮かべながらここまでの道のりを支えてくれた人たちの笑顔でした。「これが私の渇望した日本一なんだ」と優勝したにも関わらず泣いていました。その試合を観に来てくださっていたのが、その後、進学することになる筑波大学陸上競技部監督のZ先生でした。顧問の先生も筑波大学の出身であり、とても厳しい先生でしたが、その先生との出会いから高校教師になろうとも思えました。中学に引き続き、良き師に出会えたと思います。1年生のころの挫折にめげず、やり切れて良かったです。


日本代表が集まるような名門大学で感じた陸上をする喜び

名門 筑波大学陸上競技部の仲間たちと

■名門「筑波大学陸上競技部」の凄み

若園:筑波大学に進学してからは驚くことばかりでした。右を見ればインターハイチャンピオン、左を見れば日本代表がいるような大学に進学したわけです。自分は周りと比べたら下の下の下で、試合でも活躍できず入学1ヶ月くらいでめげそうになりました。競技結果も1年目は全然伸びずに悔しくて毎大会泣いていたと思います。天才肌の選手ではないし、努力だけが自分に自信をつけてくれると思っていました。その正しい努力に導いてくださったのは、紛れもなく当時の先生やコーチ、素晴らしい先輩方のおかげだと思っています。2年目からは、「自分より凄い人しかいないこの環境を存分に使い、追いつくためにはがむしゃらにやるだけではなく、理論と実践の両面から考えてやろう」と切り替えて取り組み、大学2年生のインカレで準優勝することができました。

数々のオリンピック選手を輩出した部の女子主将に

■筑波大学の女子主将となって見えた世界

若園:最終学年になるころには女子主将をさせていただきました。一番印象に残っているのは最終学年で臨んだ日本インカレです。勝ちにこだわって4年間やってきたにも関わらず、4年生でも日本一になることができなかった私は涙いっぱいでベンチに帰りました。しかし、勝ち負けに関係なく一人一人が選手としてサポートとして大会に携わり、陸上競技そのものを楽しんでいる姿がありました。筑波大学がずっと強くあり続ける理由が初めてわかりました。「陸上競技の楽しみ方を知っている集団」だからだと私は思います。総勢200人を超える大所帯のチームなので、それぞれの陸上にかける思いや取り組み方があります。それを互いに尊重し合いながら、切磋琢磨できる環境だからこそ、ずっと強くいられるのではないかなと思います。私にとっての陸上競技の楽しみ方は、勝つ事だったのでやっぱりずっと2位は悔しくて、その悔しさを晴らすべくアメリカに武者修行に行ったり、大学院でも競技を続けるという決断に繋がりました。中学時代の顧問の先生が「どうせやるなら日本一」が口癖で、私もずっとそう思っていました。泣くほど悔しいなら日本一になるまでしつこくやり続けようと決めました。そう考えると、いろんなことが全て今に繋がっているなと思います。


人との「喜びの共鳴」を感じた大学日本一の瞬間

大学院1年生時に学生日本一に

■地元岐阜で行われたインカレでの優勝と、感じた「喜びの共鳴」

若園:アメリカへの武者修行を経て、大学院での研究活動をしながら、競技も継続して取り組みました。学群生の時よりも理論的に棒高跳を捉え、より一層頭で考えるようになりました。大学院1年生で臨んだ地元岐阜での日本インカレは、私の陸上競技人生で1番印象に残っている出来事です。風向きが悪く、マットの向きを変更したりなどの影響で7時間に及ぶ長期戦でした。この試合で、自己ベストの4メートルで悲願の日本一を掴み取ることができました。関東での大会には観に来られない地元の友人や仲間、家族も、皆、応援しに来てくれました。4メートルを跳んだ瞬間、私と同じように力強くガッツポーズをして喜んでくれる友人や仲間、家族がいました。お世話になった先生方やコーチも含めて、喜びが共鳴するのを感じたのです。「これこそが、私が競技を続ける理由だ」と確信しました。それまでの私は、勝つことが自分の陸上競技の楽しみ方だと思っていました。しかし、そうではないことに気づかされます。高校1年生の時に、悔しくて泣いた岐阜国体から7年。地元岐阜で全国優勝の瞬間を、地元の大切な人たちと喜び合えて本当に良かったです。


大学院卒業、そして教師の道へ

アメリカ武者修行の際の1枚 大きな経験を胸に社会人に

■岐阜県で教師をしながらの競技続行を決断

若園:先ほどもお伝えした通り、地元岐阜県で行われた全日本インカレで感じた「喜びの共鳴」が私の競技続行の決断を後押ししました。教員という仕事は、大変忙しいとは聞いていましたが、それ以上に、体が動くうちは競技を続け、生徒たちとも喜びを分かち合いたいと思っていました。それは競技だけでなく体育の授業でも、部活でも同じです。楽しいことも、きついことも一緒にやりながら分かち合うのはずっとできることでは無いですし、とても尊いことだと思っています。ありがたいことに生徒たちも、体育で一緒にやると喜んでくれます。多分ですが、そんなに球技が得意ではないので、面白がっているのだと思いますが!生徒と一緒に成長していると感じています。保健体育の教員は、スポーツの輪を創り・広げ・分かち合えるとても素晴らしい志事です。そんな中、棒高跳でも自分自身に挑戦させてもらえる環境は、私にとって大変ありがたい環境でした。

■教員2年目に訪れた悲劇

若園:教員1年目は、仕事に慣れることを第一優先として競技をし、2年目で勝負をかけようと思っていました。それでもなかなか成績が出ず、仕事と競技の両立に悩まされました。中途半端な行動は中途半端な結果しか生まれないと分かり、言い訳ができない環境に自ら追い込み、やれる事は何でもやろうと、教員1年目の11月にコーチをつけることにしました。新しい感覚を沢山教えていただき、新しい発見もあって、棒高跳が楽しくて仕方なかったです。自分に期待しワクワクしながら臨んだ初戦でした。3m80の2本目の試技、右足を一歩、前に踏んだ瞬間、体中にパチーンという大きな音が響き、アキレス腱を完全断裂してしまいました。何をしても動かない足を見て込み上げるものが多く、どんな言葉にも当てはまらない複雑な気持ちでした。断裂した直後は、競技を続けるか辞めるかの2つの選択肢がよぎりましたが、絶対今よりも何倍も何十倍も何百倍も強くなって戻ると救急車の中で、自分とずっとそばにいてくれるコーチに誓いました。

驚異の復活を遂げ中部実業団にて3位入賞

■驚異的な回復、そして復帰戦へ

若園:コーチのサポートもあり、愛知県の名医の方に手術をしていただきました。同じ筑波大学出身で、プロサッカーチームのチームドクターをされるような先生で「棒高跳の競技復帰には1年かかる」と言われました。ショックも大きかったですが、自分の中では「もう一回、挑戦して日本一になる」というブレない思いが、自分の心を支えました。

でも、やっぱり、時々弱い自分も出てきて、どんなに築き上げたものも、たった一瞬の出来事で崩れた現実がきつくて涙が溢れることもありました。しかし、挑戦したからこそ起きた悲劇で、当たり前が当たり前でなく、我慢を強いられる今をどのように過ごすかで、意味のあるものになるか、そうじゃ無いか変わるなと思うと、今この時間も自分にとってすごくプラスに働いてんじゃん!と、何か補強を始めていました。改めて自分は骨の髄までポジティブが染み込んでいるなと感じましたね。

こんなどん底でも自信をつけるためには、昨日よりも今日、今日よりも明日何か成長できるよう挑戦し続けること、言葉で言うのは簡単だけど痛みで行動力、思考力全て削がれてしまうので難しかったです。でも、自分なりに諦めずに繰り返していくこと、積み重ねることでしか本当の自信は生まれないのもわかってるから、またいつか失った自信もUターンしてくると信じてリハビリに励みました。

車椅子、松葉杖や装具を駆使してリハビリに臨み、試合後82日目にして術足が地面をついて歩けた時は嬉しくて涙が溢れました。→ Instagram記録動画

素晴らしい医師、リハビリの先生、トレーナーに恵まれ、半年後には地元岐阜で行われた「中部実業団」の試合に復帰戦として迎えることができました。本当に出会いに恵まれ感謝しかないです。つくづく人の縁に恵まれているなと感じました。→ Instagram記録写真


日本選手権優勝を目指し、思い描く未来

モデルの仕事など様々な挑戦が大きな経験となった

■もう一度、日本一になるという強い気持ち

若園:2022年の記録は3m60。今の自分には記録も何もないので、失うことを恐れず「絶対に勝つ。もう一度、日本一になる」という思いを強くもって練習しています。生涯の目標と言えば、日本選手権優勝。そして、日本記録更新と言いたいところですが、まずは自己ベスト更新を。今の日本には4mを跳ぶ選手は何人もいます。なので、自己ベストを更新しての日本選手権優勝が目標ですね。引退時期について決めておらず、「やれるところまでやる」という気持ちでいます。

■いつか実現させたい「ストリート棒高跳び」

若園:日本選手権優勝とか、そういう目標とは別で、実はやりたいことがありまして、、、。それは勤務校の近くの「土岐アウトレット」というアウトレットモールでのストリート棒高跳を実現させたいですね。時々、現地に行っては「ここでやれたら面白いなぁ」とか思いながら妄想しています。まだ、やり方とか、具体的なことは決まっていないのですが、、、。今の勤務校にいるうちに、ぜひ、実現させたいと思っています。日本中の棒高跳選手を募ってやりたいです。

■感謝、そして思い描く未来

若園:競技人生を通して、いくつかの挫折がありました。しかし、その度に、支えてくれる家族や仲間、友人、先生、コーチの存在がありました。今回の怪我では、復帰までにトレーナーやコーチ、ドクター、教育委員会の方にも助けていただきました。怪我をして初めて気付かされることも多く改めて、私は本当に多くの人に支えられ競技が出来ていると気づきました。本当に皆さんに感謝です。競技と真っ直ぐに向き合うことで、多方面の方々に出会うことが出来ました。 TV出演やモデルの仕事も経験させていただきました。楽しくて強くなりたい一心で練習して、試合で戦う姿に、競技者同士も観てる側も共鳴の連鎖が起き、応援してもらえるからまた頑張ろうって思えて、、、そうやって誰かのほんの少しの勇気を一歩踏み出すきっかけになれたらいいなと思います。

怪我はもう過去のこととして区切りをつけて、2023年は前に進みたいと思っています。まだ、復帰しただけであって、何か結果を残したわけでもありません。2023年は、アキレス腱断裂から復活劇を遂げ結果として残していきたいと思います。そして、また喜びをみんなで分かち合いたいです。

ここまでこの記事を読んでくださった人は、よっぽど暇か、若園がどんなことを話してんやろうと揚げ足取りに来たか、数%の方は好きで見てくださってくださっていると信じています。

私の中では、アキレス腱断裂という怪我は大きなことでした。きっと、もっと大きな困難に立ち向かっている人もいると思います。最後に伝えさせてください。

よほどの困難は、よほどの覚悟をさせてくれます。そしてよほどの覚悟は、よほどの革命をもたらしてくれます。困って困らず難有りはありがたいと思えるようになったら、もうあなたの勝ちです!次は、どうすればこの困難な状況や状態を将来のありがたい状態へと契機を生かすか?に思考をシフトすることです。それが問われる正念場で一番大切なことは、「強い志」だと思います。その「強い志」があれば、また必ず戻って来られるはずです。最後まで信じて疑わないでください。自分だけでも、最後まで自分の味方でいてあげてください。

心は熱く!Where there’s a will, there’s a way.

2022/12/31  若園茜

世間では多忙だと言われる教師という仕事をしながらも、日本一へ邁進する若園茜さん。彼女からは「絶対に勝つ」という強い信念と共に、人を大切にし、そして、人と喜びを分かち合いたいという熱い気持ちが伝わってきました。修学旅行の引率にもトレーニングシューズを持参して、練習をしようとするほどの陸上への思い。そんな彼女のこれからの活躍に注目です。若園さんはInstagramでも発信活動をしていますので、皆様も是非ご覧いただけますと幸いです!
若園茜さんのInstagramはこちらをクリック

信田 雄一郎

信田 雄一郎リクゲキ編集部長

記事一覧

1987年3月14日生 愛知県出身。陸上競技をこよなく愛し、同志社大学卒業後、陸上競技部の顧問になるために教職の道へ。球技系部活動の顧問をしながら、陸上競技のパーソナルコーチも務めていた。現在は、陸上競技メディア制作の他、コーチングや教育業にも没頭中。今後はマスターズ陸上に挑戦予定。

おすすめの記事