あの時、自分の中の何かがプツンと切れてしまった。それ以降は惰性で陸上してました。
天才スプリンター「山本慎吾」は高校・大学時代を回想し、そう語る。小学校時代、中学校時代には数々の栄光を手にし、100m、200m共に中学の全国ランキング1位で太成学院大学高等学校に進学した。200mの2位には後にオリンピックメダリストになる塚原直貴がいた。塚原も21秒台を記録しており、今から20年前の当時であれば例年全国ランキングのトップにいてもおかしくないレベルではあったが、山本はそれをも凌いでいた。山本は高校での活躍を嘱望されていた。
圧倒的強さを誇った高校1年生の山本
山本は高校に進学しても快進撃を続けた。高校に入学して2ヶ月後、いきなり200mで21秒12の高校1年生の日本新記録を樹立。これは当時の記録としては異次元で、20年経った今も、この記録を超えたのはサニブラウン選手しかいない(21秒09)。さらに、その後に200mで21秒11と記録を更新し、秋には追い風参考記録ながら100mを10秒45で走った。10月の宮城国体では10秒59で圧勝した。その後も11月には浜松中日カーニバルの100mで10秒55を記録し、高校1年生としては破格の記録で1年目のシーズンを終えた。
運命を変えたレース ー2002年 高知国体 ー
高校1年で圧倒的な記録を出していた山本だが、実は高校に入ってから、周りからは「ガラスの足」と言われ、3ヶ月に1度くらいのペースで肉離れを繰り返していた。圧倒的な力で順調に見えたこれまでも、その裏では「リハビリして走れる様になったと思ったらまた怪我をしての繰り返しで、高校生の時期にそれはかなり精神的に辛いものがあって、痛いのにレースに出て更に結果も出さないといけない状況も辛かった。」という思いに苛まれていた。その状況の中で、2年生になってからも100mは10秒52(追い風参考記録で10秒4台も)、200mは21秒3台と記録こそ出していたが、ライバルたちも記録を伸ばしてきて圧倒的といえる状況からは少し変わってきた。怪我の恐怖もあり、スタートはゆっくり出て、あとで巻き返すと言うレースをしていた。そのようなレースでも10秒52を記録するあたり非凡ではあるが、それ以上は望めなかった。
そのような状態の中、その後、山本の人生に大きな影響を与えることになる10月の高知国体を迎えた。予選、準決勝を通過し、決勝に残った。そして山本の中にある思いが生まれた。「予選、準決勝とゆっくりスタートしても10秒52が出た。決勝は思い切りスタートする。そうすれば10秒3台も狙える。」ずっとくすぶっていた思いが山本を駆り立てた。もうスタートをゆっくり出ている場合ではない。決勝こそは。そういう気持ちだった。決勝の号砲が鳴ると同時に、山本は思い切りスタートを切った。後半に一気に伸びるレースパターンを得意とする山本が、スタート決めた。「よし、いける!」そう思った。そして、周りの選手がスローモーションに見えた。ゾーンに入ったのだ。いつも通り中盤から後半にかけて伸びれば10秒3台はいける、、、そう思った直後だ。山本のハムストリング(太腿後ろの筋肉)が悲鳴を上げた。肉離れだった。そして、その瞬間、ゾーンに入っていた山本は一気に現実に引き戻された。
肉離れした瞬間、自分の中の何かがプツンと切れてしまった。それまでも怪我を繰り返していたから、そこで陸上への熱意が一瞬にして冷めてしまった。
その後の記憶はほとんどないと言う。冬季練習にも顔を出してはいたが、惰性で陸上をしていた部分もあった。それでも国体での悔しさがあったから何とか走れる状態にもっていき、「最後の高校3年生のインターハイでは勝負したい」と思っていた矢先、大阪府インターハイ直前に肉離れをした。今まで目指してきたものがこれで本当に目の前からなくなってしまった。陸上の中にずっと生きてきた山本は目標を失い、「挑むものがなくなって本当の意欲がなくなって、すっからかんになった。」と言う。陸上に対する気持ちが切れたまま高校での陸上を静かに終えた。
なんとなく陸上を続け、死亡説すら流れた大学時代
高校1年、2年の時の実績を買われてなんとか同志社大学に進学し陸上部に入ることになった山本。走るのは好きだったが、熱意はほどんど消えかかっていた。完全にバーンアウトしていたのだ。脚の不安から本気で走るのが怖く、100mを走っても11秒台、途中で流して12秒かかったレースすらあった。なんとなく陸上を続けていた2007年、山本は「一期一会」と言うテレビ番組に出ることになる。異なる価値観を持った二人が旅をしながら人生について語ると言う番組だった。その放送の後、山本は仲間からは「あの番組良かったよ。」と言葉をかけられた。その影響からかwikipediaに山本の名前が載るようになった。同じ頃、仲間から「ネットにお前の悪口書かれてるで。」と言われ、ネット検索をかけた時にショックを受けた。「山本慎吾は死んだ」「あいつ遅いよな」そんな言葉が並んでいた。悔しかったし惨めだった。
そして、同じ時期にさらに悲しいことがあった。ずっと応援してくれていた両親が試合の観戦に行った時のことだった。山本のレースの直前、母親の近くに座っていた学生選手が「次のレース、山本慎吾が出るらしいぞ。でも、あいつ遅えよな。」と言っていたのだ。母親はショックを受けたと言う。そして、その話を母親から伝え聞いた山本はさらに落ち込んだ。同じ年に大阪で世界陸上が行われた。かつて全国のトップを争っていた塚原直貴が日本代表に選ばれ、リレーの決勝の舞台で快走していた。山本にとって地元大阪での世界陸上開催は心苦しいものになった。母親には「陸上を続けて欲しい」と言われたが反抗した。秋に地元の大会で引退レースをした。かつて、全国の頂点を極め、塚原の前を走っていた男が、高校2年生以降、花を咲かせることなく陸上生活を終えた。山本は”夢”をテーマにした出版社に就職した。そこでの出会いがまさかの展開を生むことになるとはその時知る由もなかった。(続く)