「日本のスポーツ・ヘルスケア産業を自立させたいんです。そのための風穴を開けたい。そのステップとしてまずは陸上競技から。2025年には形にして大きな波を起こしますよ」
壮大な夢を力強く語る男。池淵智彦。今、陸上界で注目を浴びている新進気鋭の38歳だ。
2020年、コロナ禍の6月に突如立ち上がった、オンライン陸上クラブ「CORD」
オリンピックや世界陸上出場選手を始め、数々のトップアスリートをコーチに起用したそのクラブは大きな注目を集めた。
その後、12月にはトップアスリートによるマンツーマン・少人数でレベルの高い指導を受けることのできる「CORD PARTNERS」や47都道府県に陸上クラブを設置し、入会すればどの地域のクラブにも参加できる「CORD ATHLETE CLUB」をスタートするなど、立て続けに陸上界にインパクトを与えた。その発起人こそが池淵だ。彼が、いかにしてそのようなモチベーションを抱き、そして大きな行動に出たのか。その池淵の人生ヒストリーとそこに込められた思いを2回に渡ってお届けする。今回は、池淵の陸上競技に対する思いの源流、人生の歩みに迫る。
カール・ルイスが与えてくれた人生のターニングポイント
池淵の陸上競技との出会いは小学6年生に遡る。父親が陸上競技をやっていた関係で、陸上は身近にあったが、運動大嫌い少年で、学校の昼休みも図書室で本を読んだり、絵を描いているようなタイプだった。運動が極端に苦手で、体育がある日は必ず風邪気味を装っていた。しかし、担任の先生にバレて、「今度の50m走の計測までには治しなよ。」と言われた。それまで、クラスの女の子よりも走るのが遅かったので、笑いものになるのも嫌だと感じ、「どうせなら、テレビに出ていたカール・ルイス(100m元世界記録保持者)の真似でもして、笑われるより笑わせてやろう!」と思って走った。すると、なんとクラスで一番速く走れてしまった。池淵にとってこれが人生のターニングポイントで、とても自信になり、積極性も増したのだと言う。「自分って速く走れるんだ!」と気づき、スポーツによって可能性が広がるということを感じることができたのだ。
中学で学んだ陸上競技の基礎と楽しさ
中学1年生の時は熱心な先生がいたが、2年生になる頃には異動してしまい、指導者不在になった。この頃から陸上競技の雑誌を読むようになり、彼なりに頑張った。2年生の冬ごろに福岡大学で混成をやっていた先生が指導に来て、跳躍の基礎や楽しさを教わった。この出会いは池淵にとって、とても大きなものだった。部活以外の学校生活では文化祭の取りまとめをやるなど、リーダー的なことをやり、充実した日々を送っていた。
名門、八幡西高校から日本大学の陸上部へ
池淵にとって高校時代はとても楽しい3年間だった。進学した八幡西高校(現・自由ヶ丘高校)は陸上競技の強豪校で、驚くほど素晴らしい施設もあり、チームドクターもいた。当時監督を務めていた徳永憲昭先生は彼にとっての恩師で、先生から教わったことは、社会人として、人間としての基礎にもなっているのだと言う。とても良い先生や仲間に恵まれた3年間だった。ちなみに徳永先生は3年間ずっと担任で、学級委員を3年間やらせていただいたとのこと。陸上部でもキャプテンに選ばれ、多くを学んだ高校時代だった。
その後、当時、日本でトップを狙う選手が集う日本大学に進学。練習こそ一生懸命やっていたが、ある意味、不良部員だった。そのことについては、「記事に残すよりClubhouseで話した方が良いかもしれません(笑)」と池淵は当時を振り返り笑う。彼が入部した年はインカレの連覇が止まった年で、4年間のうちには奪還できなかった。しかし、そこに集った仲間たちの圧倒的な意識の高さ、プロフェッショナルな考え方に大きな刺激を受けた。そういうチームにいられたことが彼の大きな財産になっている。
また、お世話になった小山監督は、「人の良いところを探せ」と言う指導スタンスで、今の池淵の人材育成のスタンスに繋がっている。競技では思うような結果は出せなかったが、チームの応援団長のような形で、チームを盛り上げようと頑張っていた。最後のインカレを終えて、池淵は陸上競技生活から引退した。
起業家として突き進む毎日、そして陸上との再会
大学を卒業してからは紆余曲折あり、様々なことに取り組んだ。そして、2011年に28歳で起業。今でこそ若い人が起業したりもするが、10年前は「起業なんて無理だよ。上手くいくわけがない。」などと、周りに馬鹿にされたのだと言う。しかし、当時ドラマで聞いた「やりたいことやるなら偉くなるしかない」という言葉を胸にチャレンジした。陸上では結果が出なかったので、その世界で挑戦したかったのだ。22歳から28歳までは陸上を避けていた。大学時代の仲間たちが出場していた2007年大阪世界陸上も一切観なかった。大好きだったからこそ、あえて避け、仕事に没頭した。
起業してからは、アイデアを武器に「世の中をカッコよく、素敵にしていきたい」と仕事に打ち込んだ。その時、池淵の心には「陸上」というキーワードはなかった。だが、東京マラソン関係の仕事を通して陸上と再会した。そして、2015〜16年ごろ、ある企業の陸上競技部の監督からチームのブランディングを頼まれた。しかし、あろうことか直後に、廃部になってしまったのだと言う。
そこで、新しいチームの在り方を模索した。池淵は「陸上競技の世界はどこかアマチュア、アマチュアしていて、垢抜けない業界だな」と思っていた。また、「業界として良くない方向に進んでいるな。」とも思ったのだと言う。廃部を機にチームを失った選手たちの移籍先を探したが、広告宣伝費としての評価という軸でしか見てもらえなかった。彼らの魅力はそれだけではないはずなのに。雇用やチームを作ってもらうのは困難を極め、100社以上に当たって、ようやく、とある企業が好意的にチームを作ってくれた。「良い形で着地できた」とも思ったが、池淵はモヤモヤしていた。独特過ぎて市民権を得ていない業界。業界全体に流れる空気に違和感を感じていたのだ。
陸上がダサくなるのが嫌で、密かに作っていた企画書
池淵自身は、その業界自体を否定するつもりは無いが、実はこっそりと企画書を裏で書いていた。「来るべきタイミングで世の中に突っ込んでやろう!」と言う気持ちだったと言う。
何故そんなことをしていたかと言えば、根本は「”陸上大好きおじさん”だから。」とのこと。心の奥底で「陸上がダサくなるのが嫌だ!」と言う気持ちがあった。「雇用の問題」「賃金の問題」「子供の環境の問題」など、そう簡単にどうこうなる問題でもない。しかし、池淵は「可能性はある。私はクリエイティブなことを仕事としてやってきていたので、そこにチャンスがあると感じていました」と語る。たらればを語る口先だけの人間になるのではなく、実際に提案をできるように考えて準備をしていた。「チャンスはみんなに訪れる」と思っていた。
チャンスに挑める人間は、準備をしていた人だけなんです
そう考え、練り上げていたその企画書こそが、「CORD」の前身となる企画書だった。
福岡県生まれ。
宗像市立日の里中学校、九州共立大八幡西高等学校、日本大学出身。中学時代に陸上競技を始め、現役時代は走り幅跳びを専門種目としていた。大学卒業後、紆余曲折を経て28歳で起業。その間、陸上競技に触れることはあまりなかったが、2016年を転機として、再び陸上界に深く関わっていくようになった。そしてついに、2020年、トップアスリートによるマンツーマン・少人数でレベルの高い指導を受けることのできる「CORD PARTNERS」や47都道府県に陸上クラブを設置し、入会すればどの地域のクラブにも参加できる「CORD ATHLETE CLUB」をスタート。今後、陸上界に大きな旋風を巻き起こす存在として注目されている。